関ヶ原の戦いと最上陣とは? わかりやすく解説

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関ヶ原の戦いと最上陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 13:00 UTC 版)

伊達政宗」の記事における「関ヶ原の戦いと最上陣」の解説

豊臣秀吉死後の慶長5年1600年)、家康会津の上景勝討伐の軍を発するとこれに従い7月25日には登坂勝乃が守る白石城奪還した家康畿内離れた隙をついて五奉行石田三成らが毛利輝元総大将として家康に対して挙兵したため、下野国小山(現・栃木県)まで北上していた家康西へ引き返す翌月家康政宗に対して岩出山転封時に没収され、この時点では上杉となっていた旧領6郡49万石領土自力回復を許す旨の書状(「百万石お墨付き仙台市博物館)を送っている。これは政宗南部利直領の和賀稗貫閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏西軍通じているとしきりに家康訴えていた事から、お墨付き与える事で政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった同年9月関ヶ原の戦い勃発西軍の上杉家重臣直江兼続指揮執る軍が東軍最上氏領内侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍属した政宗は、最上氏からの救援要請受けて叔父留守政景指揮する3千の兵を派遣し9月25日には茂庭綱元上杉領の刈田郡湯原城を攻略した関ヶ原の戦い徳川方勝利終わり直江兼続もまた最上義光敗れて米沢逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠越えて南進し、10月6日福島城主・本庄繁長軍勢衝突する宮代表の野戦では威力偵察出た大宝寺義勝(繁長の子)が指揮執る上杉軍破ったものの、続く福島城包囲戦では繁長の堅い守り阻まれ攻城失敗、さらに上杉軍別働隊補給線断たれたため、翌日には北目城へと撤退した後世軍記物見えいわゆる松川の戦いモデル)。 この後翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦失敗取り戻せず、旧領6郡のうち奪還できたのは陸奥国刈田郡2万石のみであった加えて政宗南部領内で発生した和賀忠親による一揆煽動し白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4千の兵を侵攻させていた事が発覚した岩崎一揆)。この一件最終的に不問付されたものの、政宗希望した恩賞追加尽く却下され領地60万石となった(のちに近江国常陸国に小領土飛地2万石の加増62万石となる)。

※この「関ヶ原の戦いと最上陣」の解説は、「伊達政宗」の解説の一部です。
「関ヶ原の戦いと最上陣」を含む「伊達政宗」の記事については、「伊達政宗」の概要を参照ください。

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