関ヶ原の戦いと戦後処理
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慶長5年(1600年)、三成らが家康に対して挙兵して関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍の総大将として擁立された五大老のひとり・毛利輝元の庇護下に秀頼は置かれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。 ところが、家康は五大老筆頭の立場を利用し、その戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した(関ヶ原の戦いの戦後処理を参照)。ただし、近年の研究により、西日本を中心とした大名への干渉を行ったり、蔵入地からは依然として収入があったりした形跡があったことが判明している。 慶長8年(1603年)2月、家康は鎌倉幕府や室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得。諸大名を動員して江戸城の普請(天下普請)を行わせ、独自の政権(江戸幕府)構築を始め、秀頼は次第に天下人の座から外されてゆくことになる。とはいえ、この江戸城の普請に関しても秀頼の直臣が奉行として指揮しており、一定の影響力を保っていた。 同年7月、秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹であるお江)と結婚した。
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関ヶ原の戦いと戦後処理
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。関ヶ原本戦では先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃に求めるべきとされている。 決戦終盤は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、更に退却する島津軍を百余騎率いて追撃する。遂に義弘の目前まで迫り、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、落馬してしまう。あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったという。 関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにも関わらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力した。西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取り成し、特に、周防・長門の2か国が安堵された事に感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。 また、小牧・長久手の戦いでは直政が同盟交渉にあたり、聚楽第行幸では同じ侍従以上の大名行列に供奉し、昇殿した縁もあり、長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与する事となった盛親の謝罪の取次を仲立ちをした。その後、盛親が家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、家臣の鈴木平兵衛を浦戸城へ派遣したが長宗我部の家臣に抵抗されたため、攻撃して城を接収した。 その他、徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちし、外交手腕を発揮している。 真田昌幸とその次男・信繁(幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。 これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に任官された(『井伊家譜』)。 家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い佐和山に井伊家を配したと伝えられる。 慶長7年(1602年)2月1日彦根城築城途中に佐和山城で直政は死去した。享年42。遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立された。 家督は長男の直継(後の直勝)が継いだが病弱であったため、大坂冬の陣に出兵するに際し、家康の直命により、次男である井伊直孝が指名された。 その後、彦根城が築城されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなった。
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