関ヶ原の戦いと戦後処理とは? わかりやすく解説

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関ヶ原の戦いと戦後処理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:25 UTC 版)

豊臣秀頼」の記事における「関ヶ原の戦いと戦後処理」の解説

慶長5年1600年)、三成らが家康に対して挙兵して関ヶ原の戦い勃発すると、西軍総大将として擁立された五大老のひとり・毛利輝元庇護下に秀頼は置かれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組一部西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦い大義としており、戦後に秀頼は家康忠義者として労った。 ところが、家康五大老筆頭立場利用し、その戦後理において羽柴宗家所領いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し日本全国分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名管理任せていた分を奪われて、秀頼は摂津河内・和泉直轄地のみを知行する65万石一大名の立場転落した関ヶ原の戦いの戦後処理参照)。ただし、近年の研究により、西日本中心とした大名への干渉行ったり、蔵入地からは依然として収入があったりした形跡があったことが判明している。 慶長8年1603年2月家康鎌倉幕府室町幕府最高権力者地位象徴する征夷大将軍官職獲得諸大名動員して江戸城普請天下普請)を行わせ、独自の政権江戸幕府構築始め、秀頼は次第天下人の座から外されてゆくことになる。とはいえ、この江戸城普請に関しても秀頼の直臣奉行として指揮しており、一定の影響力保っていた。 同年7月、秀頼は、生前秀吉計らい婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹であるお江)と結婚した

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関ヶ原の戦いと戦後処理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 01:56 UTC 版)

井伊直政」の記事における「関ヶ原の戦いと戦後処理」の解説

慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍随行し本多忠勝と共に東軍軍監任命され東軍指揮中心的存在となった同時に全国諸大名東軍につける工作行い直政誘い働きかけにより、京極高次竹中重門加藤貞泰稲葉貞通関一政相良頼房犬童頼兄らを西軍から東軍取り込んだ関ヶ原本戦では先陣福島正則決まっていたにもかかわらず直政松平忠吉抜け駆けによって戦闘開始されたとされているが、実際抜け駆けとされている行為霧の中で偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃求めるべきとされている。 決戦終盤島津義弘の甥である島津豊久討ち取り、更に退却する島津軍を百余騎率いて追撃する。遂に義弘目前まで迫り義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍柏木源藤に足を狙撃され落馬してしまう。あまりの猛追振り護衛兼ね配下追い付けず単騎駆けのような状態であったという。 関ヶ原の戦い後は、足に大怪我負ったにも関わらず戦後処理と江戸幕府基礎固め尽力した西軍総大将務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政取り成し、特に、周防長門の2か国が安堵された事に感謝され今後の「御指南」役を請う起請文送られている。 また、小牧・長久手の戦いでは直政同盟交渉にあたり聚楽第行幸では同じ侍従上の大名行列供奉し、昇殿した縁もあり、長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子同じく親し間柄にあり、意に反して西軍与する事となった盛親の謝罪取次仲立ちをした。その後、盛親が家臣讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、家臣鈴木平兵衛浦戸城派遣した長宗我部家臣抵抗されたため、攻撃して城を接収した。 その他、徳川氏島津氏和平交渉仲立ちし、外交手腕発揮している。 真田昌幸とその次男信繁幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍味方した昌幸の長男真田信之懇請受け入れたもので、信之は将来まで徳川家尽くすだろうと考えて行動だったという。 これらの功によって、石田三成旧領である近江国佐和山滋賀県彦根市18万石与えられ従四位下に任官された(『井伊家譜』)。 家康は、西国抑え非常時朝廷を守るため、京都に近い佐和山井伊家配した伝えられる慶長7年1602年2月1日彦根城築城途中佐和山城直政死去した享年42遺体遺意により、当時芹川三角州となっていた場所で荼毘付され、その跡地長松院建立された。 家督長男の直継(後の直勝)が継いだ病弱であったため、大坂冬の陣出兵する際し家康の直命により、次男である井伊直孝指名された。 その後彦根城築城されると同時に佐和山藩18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩30万石)が置かれた。それ以来彦根藩明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなった

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