官撰の書籍への混入(1837〜1853年)
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「村正」の記事における「官撰の書籍への混入(1837〜1853年)」の解説
天保8年(1837年)、将軍徳川家斉の発議による『三河後風土記』の改訂・増補版『改正三河後風土記』が完成、史官成島司直が同書を将軍に献上した。当時、幕府の正史『御実紀』(俗に『徳川実紀』)の編輯主幹も務めていた成島司直は江戸時代を代表する歴史学者の一人で、史学のみならず和漢の膨大な古典籍に通じ、世情にも詳しく後に徳川家慶の政治的ブレーンとしても活躍し、さらに和歌も物書きも得意とした博覧強記の人であった。その学者としての力量は『改正三河後風土記』にも遺憾なく発揮され、多数の間違いがあると見抜いている。 ただし、原則としては『改正三河後風土記』はあくまで『三河後風土記』の改訂・増補という立場だったので、村正の逸話は削る訳にもいかずそのまま残された他、新たに『落穂集』『柏崎物語』と類似の家康長男の介錯に使われたのが村正というエピソードが追加されたので、官撰のお墨付きなのに、妖刀伝説という点についてはかえって混迷を深めることになってしまった。今まで出た全ての村正伝説を並べた結果、『改正三河後風土記』の村正は(原文にそういう言葉はないが)「徳川家四代不吉の刀工」ということになる。 さらに天保14年12月(1844年1–2月)、正史『御実紀』の徳川家康の事績を記した部では、本文では村正の記述が抜かれているが、附録には『柏崎物語』の家康が直々に村正の所持を禁じたという話が転載されてしまう。
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