安徽派時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 00:12 UTC 版)
6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後に秀才になり、さらに1903年(光緒29年)には癸卯科挙人となる。1905年(光緒31年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。1908年(光緒34年)の卒業後、山東省の登莱高膠道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 1915年(民国4年)9月、袁世凱の皇帝即位運動における請願連合会文牘組副主任となり、福建省の誓願人としても名を列ねた。1916年(民国5年)6月の袁死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段芝貴の秘書長をつとめた。この間に、王揖唐と親交を結び、1918年(民国7年)3月に王が安福倶楽部を創始すると、梁もこれに加わる。さらに参議院議員に当選し、8月に参議院秘書長に就任している。1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、梁も指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込んだ。 1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)で段祺瑞が臨時執政として復権すると、梁鴻志も臨時執政秘書長に就任した。1925年(民国14年)には日本側と合同で東方文化事業総委員会中国委員となっている。しかし同年11月に梁は辞任を余儀なくされ、天津に寓居した。しばらくして段も失脚している。1927年(民国16年)、張作霖の下で安国軍総司令部政治討論会委員に任ぜられた。 1928年(民国17年)、中国国民党の北伐勝利と共に、梁鴻志も指名手配され、しばらくは大連に隠れ住んだ。1931年(民国20年)の満州事変後に、段が天津から上海に移ると、段が1936年(民国25年)に死去するまで、梁はこれに随従している。
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