安徽派の形成、府院の争いとは? わかりやすく解説

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安徽派の形成、府院の争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:35 UTC 版)

段祺瑞」の記事における「安徽派の形成、府院の争い」の解説

同年6月袁世凱死去すると、黎元洪後任大総統就任する一方で段祺瑞国務総理に就任した。これ以降北京政府では段率い安徽派馮国璋率い直隷派とで派閥成立していく。直隷派英米支援を受ける傾向があったのに対し安徽派日本からの支援を受ける動きがあった。同年12月24日に段は、日本からの支援得よう図り内閣総理大臣寺内正毅派遣してきた西原亀三会談している。 また、北軍指導者自認する段祺瑞は、北洋出身者ではない黎元洪下風に立つことを肯んぜず、両者次第抜き差しならない対立へと至ることになる(府院の争い)。この対立徐世昌調停により一時収まったものの、1917年民国6年春になると、対ドイツ宣戦めぐって両者は再び対立した日本支持受けてドイツ宣戦謀る段に対し国会議員アメリカ支援を受ける黎はそれに反対したのである。段は自らを支持する各省督軍で「督軍団」を組織するなどし、武力行使ちらつかせながら宣戦押し通そうとした。 しかし国内世論拒否反応背景にした黎元洪を、段祺瑞押し切ることができなかった。逆に同年5月23日には、黎により段が国務総理罷免されてしまう。怒った段は天津移り安徽督軍張勲らを含む督軍団を煽動して独立宣言発するように仕向け、黎を辞任追い込もう画策した。追い込まれた黎は張を招聘篭絡して段に抵抗しようとする。ところがこの機会捉えた張は、7月1日北京乗り込む直ちに黎を下野追い込み清朝復辟敢行した(張勲復辟)。これを見た段は直ちに張を反逆者として追討することを宣言し同月14日、張を駆逐し北京奪還している。黎の後任大総統には直隷派馮国璋就き、段は国務総理陸軍総長として北京政府内で実権掌握した8月14日には、対ドイツ宣戦果たしている。

※この「安徽派の形成、府院の争い」の解説は、「段祺瑞」の解説の一部です。
「安徽派の形成、府院の争い」を含む「段祺瑞」の記事については、「段祺瑞」の概要を参照ください。

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