安徽派の形成、府院の争い
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同年6月、袁世凱が死去すると、黎元洪が後任の大総統に就任する一方で、段祺瑞は国務総理に就任した。これ以降、北京政府では段率いる安徽派と馮国璋率いる直隷派とで派閥が成立していく。直隷派が英米の支援を受ける傾向があったのに対し、安徽派は日本からの支援を受ける動きがあった。同年12月24日に段は、日本からの支援を得ようと図り、内閣総理大臣寺内正毅が派遣してきた西原亀三と会談している。 また、北軍の指導者を自認する段祺瑞は、北洋出身者ではない黎元洪の下風に立つことを肯んぜず、両者は次第に抜き差しならない対立へと至ることになる(府院の争い)。この対立は徐世昌の調停により一時は収まったものの、1917年(民国6年)春になると、対ドイツ宣戦をめぐって両者は再び対立した。日本の支持を受けて対ドイツ宣戦を謀る段に対し、国会議員やアメリカの支援を受ける黎はそれに反対したのである。段は自らを支持する各省督軍で「督軍団」を組織するなどし、武力行使もちらつかせながら宣戦を押し通そうとした。 しかし国内世論の拒否反応を背景にした黎元洪を、段祺瑞は押し切ることができなかった。逆に同年5月23日には、黎により段が国務総理を罷免されてしまう。怒った段は天津に移り、安徽督軍張勲らを含む督軍団を煽動して「独立」宣言を発するように仕向け、黎を辞任に追い込もうと画策した。追い込まれた黎は張を招聘・篭絡して段に抵抗しようとする。ところがこの機会を捉えた張は、7月1日に北京に乗り込むと直ちに黎を下野に追い込み、清朝復辟を敢行した(張勲復辟)。これを見た段は直ちに張を反逆者として追討することを宣言し、同月14日、張を駆逐して北京を奪還している。黎の後任の大総統には直隷派の馮国璋が就き、段は国務総理兼陸軍総長として北京政府内で実権を掌握した。8月14日には、対ドイツ宣戦も果たしている。
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