国務総理に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:51 UTC 版)
1921年(民国10年)9月、安徽省長に就任する。しかし、1923年(民国12年)に軍縮を図って安徽督理馬聯甲と衝突し、辞任に追い込まれた。同年2月から11月まで航空署督弁をつとめる。1924年(民国13年)10月、段祺瑞の命により許は孫文と対面し、直隷派討伐を図る。 その後、馮玉祥による北京政変(首都革命)を経て、許世英は善後会議秘書長となった。民国13年12月以降、段祺瑞は臨時執政として国務会議を主宰し、国務院総理をしばらく置いていなかったが、1925年(民国14年)12月26日、国務院総理の職が復活し、許が総理となった。内閣の組織では、許は中国国民党にも配慮する人事を行ったが、結局は国民党人士の支持を取り付けることができなかった。翌年2月15日、許は総理を辞任した。5月に段も下野に追い込まれると、許は段に随従して上海に逃れた。
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