国務総理就任
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鄭雲燦国務総理が2010年7月に退任を表明し、後任として名前が挙がったがこれを固辞。いったんは金台鎬前慶尚南道知事が指名された。しかし就任のために必要な国会承認に向けた人事聴聞会において不正資金疑惑など様々な疑惑を追及され、8月29日に指名辞退に追い込まれた。その後、9月16日になって後任に指名され、10月1日に正式就任。本籍が全羅南道出身としては初、監査院長出身としては李會昌以来二人目の国務総理である。
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国務総理就任
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1911年(宣統3年)10月の武昌起義勃発後、熊希齢は直ちに張謇らによる革命派・共和制支持の電文に名を列ねた。1912年(民国元年)、章太炎らの中華民国連合会に参加し、さらに統一党、共和党に相次いで加入した。同年4月、北京政府の唐紹儀内閣で財政総長に任命され、財政整理に取組んだ。しかし、外国銀行団との借款交渉の不調やそれ自体への国内批判により、辞任に追い込まれた。1913年(民国2年)、熱河都統に就任した。 二次革命(第二革命)に際して熊希齢は、袁世凱を支持している。二次革命鎮圧後、熊は袁の支持により国務総理兼財政総長に就任した。熊は梁啓超や張謇らの著名政治家を閣僚に起用し、さらに『政府大政方針宣言』を公表して国政改革への意欲を示した。しかし、現実には袁世凱の威勢に抵抗することはできず、その命に従って国会解散などを行うことしかできなかった。さらに袁世凱から用済みとされる形で、内閣は1914年(民国3年)2月に崩壊した。
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