国務長官および大統領選出馬
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「ジェイムズ・G・ブレイン」の記事における「国務長官および大統領選出馬」の解説
ブレインはジェームズ・ガーフィールドおよびチェスター・A・アーサー大統領の内閣で国務長官を務めた。連続しない期間で2度この職に就いた者としては2人目で最後だった。ガーフィールドが暗殺された後、アーサー大統領は1881年12月までブレインを国務長官としていた。 1884年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党公認大統領候補となったが落選した。ブレインは1860年から1912年の間で唯一人大統領選で落選した共和党非現職候補者であり、一度も当選できなかった共和党公認大統領候補としては2人目だった。「マグワンプス」と呼ばれる共和党改革派がブレインの汚職という評判故に民主党のクリーブランドを支持した。ブレインが一連の素晴らしい演説を繰り返した白熱した選挙戦の後で、ニューヨーク州を僅差で失ったために敗れた。ブレイン自身を含み多くの者は、その敗北の原因を1884年10月29日に、ブレインのいる前で、プロテスタントの牧師サミュエル・D・バーチャードが使った「ラム酒、ローマニズムと反逆者」という言葉に帰している。バーチャードは、その意見では民主党の立場を特徴づけるためにこの言葉を使った。ラム酒はアルコールから上がる利益を意味し、ローマニズムはカトリック教会、反逆者は1861年のアメリカ連合国を意味していた。 この言葉はブレインのものではなかったが、その反対勢力はブレインのカトリック教会に対する敵意を象徴させるために利用し、おそらくカトリック教徒の中には投票対象者を変える者がいた。ブレインの母はアイルランド人ローマカトリック教徒の子孫であり、姉妹は修道女であり、ブレインが多くの民主党支持者の票を得ようとしたという憶測もあった。しかしカトリック教徒はブレインの修正条項を支持したことでブレインを既に疑っており、このことで多くの疑いを確信させることになった。 1888年の大統領候補者選びの時は候補者指名を拒否し、ベンジャミン・ハリソン大統領の内閣で再び国務長官となり、1889年から1892年まで務めた。 ブレインの国務長官としての役割は幾つかの顕著な段階で際だった。アメリカ大陸の国々の友好的理解と協力を促進するために、ブレインを議長として汎アメリカ会議が企画され推進されたが、ブレインの引退で挫折することになった(会議での最も重要な決議は貿易の域内依存、大陸横断鉄道および国際紛争における強制力ある調停の必要性だった)。ブレインはこの政策のために関税法を提案し、自国の商業を繁栄させた多くの相互依存条約を交渉した。 ブレインはサモアにおけるアメリカの権益を維持し、1891年にニューオーリンズで警察署長を殺害したマフィアとして告発された11人のイタリア人の私刑についてイタリアと活発に外交交渉を行い、アメリカ海軍の艦船USSボルティモアの水夫を巻き込み、死者を出した酒場での喧嘩について合衆国とチリの間の緊張関係の間も断固たる態度を崩さず、ベーリング海でのアザラシ猟についてイギリスとの議論を行い、この食い違いは仲裁によって後に解決された。ブレインはクレイトン・バルワー条約の修正を行うために動き、イギリス政府との延々と続く交渉の中で、大西洋と太平洋を繋ぐために建設される地峡の運河はアメリカが排他的に支配するという政策を強力に主張した。 ブレインは共和党全国大会の前夜、1892年6月4日に辞任した。その名前は大統領指名候補として再度代議員の考慮対象とされたが、多くの支持は得られなかった。
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