農商総長となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:47 UTC 版)
1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を計画した際には、田文烈も趙倜とともにこれを擁護する。同年末に袁が即位した際には、田は一等伯に封じられた。翌年6月に袁が死去しても、田は引き続き河南省長(巡按使の改名)をつとめた。同年10月、13省の督軍と共に、孔教を国教とする規定を憲法に編入するよう黎元洪に求める電文を発している。1917年(民国6年)5月、黎が段祺瑞を国務総理から罷免した際には、趙とともに独立を宣し、段を擁護した。 同年11月30日、長年来の友人である王士珍が署理国務総理に就任すると、12月1日に田文烈は農商総長に任命された。以後、内閣は頻繁に変動したが、1920年(民国9年)2月まで、田は一貫してこの地位に在った。南北対立の混乱期ではあったが、農商総長としての田は、実業に関する様々な研究会や調査会を立ち上げて実態を調査し、近代的法制の導入に尽力した。その後も、内務総長や交通総長などを歴任している。1922年(民国11年)8月、病のため辞任、引退した。 1924年(民国13年)12月11日、北京で病没。享年67。
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