農園の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:32 UTC 版)
「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事における「農園の生活」の解説
ニューイングランド住人の大多数は小農だった。これら小農の家族の中では、またイングランド人家族も男性がその資産と妻に対して絶対的権力を持った。イングランド人女性は結婚すると旧姓と個人としてのアイデンティティを失ったので、寡婦になったとしても、自己資産を持てず、訴訟を起こせず、政治に参加できなかった。妻の役割は健康な子供を産んで育てることであり、その夫を支えることだった。大半の女性はこの義務を遂行した。18世紀半ばに女性は通常20代初期に結婚し、6人から8人の子供を産み、子供達は大抵成人まで育った。農家の女性は羊毛から毛糸を紡ぎ、セーターやストッキングを編み、蝋燭や石鹸を作り、ミルクを攪拌してバターを作ることで家族が必要とする物資の大半を供給した。 ニューイングランドの大半の親はその息子達が自分達の農園を築くのを援助しようとした。息子たちが結婚すると父親は土地、家畜あるいは農機具を贈り物にした。娘達は家財道具、農園の動物あるいは現金を受け取った。見合い結婚は大変稀だった。通常は子供達が宗教や社会的地位の同じような適当な知り合いの輪の中から配偶者を選んだ。両親は子供達の結婚について拒否権を持っていた。 ニューイングランドの農家は通常木材が豊富だったので木の家に住んだ。ニューイングランドの典型的な農家は中2階建てで強い枠組み(通常は大きな角材で造られた)を持ち、木製のよろい張り下見壁板で覆われた。調理のためと冬季の暖房のために家の中心には大きな煙突が立てられた。1階部分の一端にはホールがあり、家族が働いたり食事を摂る多目的の部屋として使われた。ホールに隣接して客間があって客をもてなすために使われ、家内で一番の家具や両親のベッドが置かれた。子供達は上のロフトで寝み、台所はホールの一部にあるか、家の裏の物置部分にあった。植民地時代の家族は大きかったので、このような小さな家屋では多くのことが行われ、ほとんどプライバシーは無かった。 18世紀半ばまでに、このような生活様式は危機に直面していた。地域人口は1700年の10万人から1725年の20万人、1750年の35万人と、世代ごとにほぼ倍増したが、これは各家族が多くの子供を抱え、多くの者は60歳まで生きたからだった。マサチューセッツ、コネチカットおよびロードアイランドの植民地人は農夫の間でその土地を小分けし続けていたので、農場はあまりに小さくなり、一つの家族を養えなくなった。この過剰な人口によってニューイングランドの独立したヨーマン農夫による理想の社会が脅かされるようになった。 農夫の中にはマサチューセッツやコネチカットの未開の地で農場を作るために土地特許を得るか、ニューハンプシャー、後にバーモント州となった所で土地投機家から土地区画を購入する者がいた。農業の革新者になる農夫もいた。ムラサキツメクサやチモシー・グラスのような家畜の餌になるイングランドの滋養のある草を植え、生産性が高くて小農にも利益になるジャガイモを育てた。農家の家族は互いに商品を交換したり労働を助け合うことで生産性を上げた。彼らは家畜や放牧地を貸し借りし、共同して毛糸を紡ぎ、キルトを縫い、トウモロコシの皮をむいた。移住、農業の確信および経済的共同作業によって19世紀までニューイングランドのヨーマン社会を保存する創造的手段となった。
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