安直戦争、第一次奉直戦争
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1919年(民国8年)5月に五四運動が発生すると、段祺瑞ら安徽派に対する反感から、曹錕部下の呉佩孚が運動支持の姿勢を示す。同年12月、馮国璋が死去したため、曹がこれを継承して直隷派のトップとなった。曹は安徽派に対抗するため、張作霖ら奉天派との連携を強化し、1920年(民国9年)4月になると、保定で八省代表会議を開催した。その翌月には、呉が湖南から撤兵して北上、安徽派への圧力を更に強める。こうして7月14日に安徽派と直隷派の全面衝突が勃発した(安直戦争)。曹率いる直隷派は元々軍事力で優位であり、しかも奉天派と連合していたため、僅か4日で安徽派を撃破してしまう。こうして直隷派・奉天派連合が北京政府を牛耳ることになり、同年9月、曹は直魯豫巡閲使に就任した。 曹錕と張作霖は互いに姻戚関係があり、対立を回避しようとする傾向があった。しかし呉佩孚らは張の台頭に反感を抱き、また直隷派の背後には英米、奉天派の背後には日本が付いていたこともあって、両派の関係は次第に悪化していく。1921年(民国10年)12月、張の後押しで梁士詒が国務総理に就任すると、呉はこれに激怒し、梁を「売国奴」と非難した。両派の決裂は不可避となり、ついに翌1922年(民国11年)4月、第一次奉直戦争が勃発した。この時は精兵を抱えていた直隷派が勝利し、張を山海関の外へと駆逐している。 第1次奉直戦争の勝利で政治基盤を強化した曹錕は、同年6月、安徽派・奉天派に寄っていると見られた大総統徐世昌を辞任に追い込み、黎元洪を後任として擁立した。黎は直隷派の傀儡でしかなく、これにより直隷派の全盛期が現出した。勢いに乗った曹は、自身で大総統に就任しようと画策し、国務総理高凌霨や衆議院議長呉景濂、呉毓麟ら政客と結んで黎を辞任に追い込むための政治工作を開始する。 しかし呉佩孚は、黎元洪をそのまま擁立しつつ直隷派支配の中国全土への拡大を優先させるべきとの考えであり、大総統就任に拘る曹錕に不快感を抱き始めた。その結果、直隷派は曹の「保定派」と呉の「洛陽派」に内部分裂する動きが生じた。ただしこの保洛対立は、呉の自制のおかげで完全な決裂・衝突にまでは至らずに終わる。1923年(民国12年)6月、曹は黎の公邸を包囲するなど露骨な軍事的圧力をかけ、ついに黎を辞任させた。
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