安直戦争、第一次奉直戦争とは? わかりやすく解説

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安直戦争、第一次奉直戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:25 UTC 版)

曹錕」の記事における「安直戦争、第一次奉直戦争」の解説

1919年民国8年5月五四運動発生すると、段祺瑞安徽派対す反感から、曹錕部下呉佩孚運動支持姿勢を示す。同年12月馮国璋死去したため、曹がこれを継承して直隷派トップとなった。曹は安徽派対抗するため、張作霖奉天派との連携強化し1920年民国9年4月になると、保定八省代表会議開催した。その翌月には、呉が湖南から撤兵して北上安徽派への圧力を更に強める。こうして7月14日安徽派直隷派全面衝突勃発した安直戦争)。曹率い直隷派は元々軍事力優位であり、しかも奉天派連合していたため、僅か4日安徽派撃破してしまう。こうして直隷派奉天派連合北京政府牛耳ることになり、同年9月、曹は直巡閲使に就任した曹錕張作霖互いに姻戚関係があり、対立回避しようとする傾向があった。しかし呉佩孚らは張の台頭反感抱き、また直隷派背後には英米奉天派背後には日本付いていたこともあって、両派の関係は次第悪化していく。1921年民国10年12月、張の後押し梁士詒国務総理に就任すると、呉はこれに激怒しを「売国奴」と非難した。両派の決裂不可避となり、ついに翌1922年民国11年4月第一次奉直戦争勃発した。この時は精兵抱えていた直隷派勝利し、張を山海関の外へと駆逐している。 第1次奉直戦争勝利政治基盤強化した曹錕は、同年6月安徽派奉天派寄っていると見られ大総統徐世昌辞任追い込み黎元洪後任として擁立した。黎は直隷派傀儡でしかなく、これにより直隷派全盛期現出した勢い乗った曹は、自身大総統就任しようと画策し国務総理高凌霨衆議院議長呉景濂呉毓麟政客結んで黎を辞任追い込むための政治工作開始する。 しかし呉佩孚は、黎元洪そのまま擁立しつつ直隷派支配中国全土への拡大優先させるべきとの考えであり、大総統就任拘る曹錕不快感抱き始めたその結果直隷派は曹の「保定派」と呉の「洛陽派」に内部分裂する動き生じた。ただしこの保洛対立は、呉の自制おかげで完全な決裂衝突にまでは至らずに終わる。1923年民国12年6月、曹は黎の公邸包囲するなど露骨な軍事的圧力をかけ、ついに黎を辞任させた。

※この「安直戦争、第一次奉直戦争」の解説は、「曹錕」の解説の一部です。
「安直戦争、第一次奉直戦争」を含む「曹錕」の記事については、「曹錕」の概要を参照ください。

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