安徽派軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:40 UTC 版)
同年6月6日に袁世凱が死去すると、張敬尭は河南に戻る。そして、自らの地盤を求めて河南省や山西省の奪取を企む。しかし、これらの実行はならなかった。北京政府の派閥争いでは、安徽派に所属している。 1918年(民国7年)1月、段祺瑞の命により、張敬尭は南方政府(護法軍政府)討伐のため湖南省へ進軍した。しかしこの時は、直隷派の呉佩孚や馮玉祥らが長沙を占領するなど、その活躍が目立っている。それにもかかわらず3月27日、張は、段から湖南督軍兼省長に任命された。この人事は、当然ながら呉・馮らの反感を招くことになった。 張敬尭の実効支配はわずかに長沙と岳陽一帯に限られ、直隷派や南方政府側の軍人たちも湖南省内各地に割拠する状況となる。しかも、張の統治手法は搾取的、かつ、拙劣・腐敗したものであったため、湖南省の社会各層の反発まで招くことになった。1920年(民国9年)6月、南方政府軍が湖南省を奪回しようと反撃に転じる。しかも呉佩孚・馮玉祥らも張敬尭を見捨てたため、張は戦わずして湖北省に逃走した。張は、その醜態故に段から罷免され、上海へ逃げ込んだ。
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