安徽派への加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:04 UTC 版)
1911年(宣統3年)の辛亥革命では、田中玉は清朝擁護の姿勢をとった。革命派優勢となると、職を捨てて北に帰ったが、まもなく袁世凱から山東兗州鎮守使に任命された。1912年(民国元年)、山東民政長代理となる。この間に新型大砲を日本から購入し、帰国後に試射を成功させたことから、「北洋砲聖」と讃えられている。1913年(民国2年)7月、曹州鎮総兵を兼任し、さらに兗州鎮守使に転じた。1915年(民国4年)4月、田は北京に召還され、陸軍部次長に昇進した。同年、袁が皇帝に即位すると、田は一等男爵に封じられた。 1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去すると、田中玉は段祺瑞らの安徽派に属し、察哈爾(チャハル)特別行政区都統に任命された。1917年(民国6年)4月、段が召集した督軍団に参加した。7月、吉林督軍孟恩遠が張勲復辟に関与したとして罷免されると、田がその後任に任命された。しかし、奉天派の張作霖は田の着任を望まず、圧力や妨害を加えてきたため、田は察哈爾特別行政区都統に復帰した。
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