安徽派に属す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:51 UTC 版)
1912年(民国元年)5月、張錫鑾の推薦を受けた許世英は、袁世凱により大理院院長に任命された。陸徴祥内閣、趙秉鈞内閣、段祺瑞臨時内閣においては、司法総長をつとめている。政党活動では、徐謙らと国民共進会を組織し、後に国民党に合流している。しかし、1913年(民国2年)3月に宋教仁が暗殺されると、国民党員でありながらも許は司法総長として審理につき困難な立場に立たされ、革命派の黄興らから厳しく糾弾された。 同年10月、奉天省民政長に異動する。1914年(民国3年)春、約法審査員として中華民国約法の増補改正に関与した。同年5月、福建民政長(後に巡按使と改称)に任命されたが、福建護軍使李厚基と不仲であったため、1916年(民国5年)4月、辞任した。 袁世凱の死後、許世英は、地縁から段祺瑞率いる安徽派の一員となる。民国5年6月、内務総長となり、翌7月には交通総長となった。しかし、府院の争いの中で、黎元洪から津浦鉄道を巡る収賄案件を糾弾され、1917年(民国6年)5月に許は一時逮捕されてしまう。まもなく無罪となったが、交通総長は辞任せざるを得なかった。1918年(民国7年)、中意銀行総裁に就任した。
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