杜錫珪との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/30 00:51 UTC 版)
北京政府内部の政争では、梁鴻志と同郷の友人であったことなどもあり、林建章は安徽派に属していた。1922年(民国11年)、第一次奉直戦争が勃発すると、直隷派の第2艦隊司令杜錫珪は直隷派として参戦することを主張したが、林は中立を主張した。しかし、杜が直隷派として奉天派撃破に貢献すると、林は失脚してしまった。 翌年4月、林建章は、安徽派の浙江督軍盧永祥からの資金援助を受けて、再起を図る。まず給料遅配に憤る海軍士官たちを教唆し、これにより海軍の一部を北京政府から独立させた。そして林は、上海に海軍領袖処と呼ばれる機関を設置し、海軍瀘隊を結成したのである。林はさらに買収攻勢を北京政府側に仕掛け、一部艦艇を味方に引き込んでいる。しかし、1924年(民国13年)からの江浙戦争で盧が敗北してしまったため、林の下にあった海軍は次々と北京政府に回帰し、林も下野に追い込まれた。 同年10月に段祺瑞が復権して臨時執政となると、林建章は翌月にその下で海軍総長に任命され、海軍統率の権限を手中に収めた。しかし1926年1月、許世英内閣で杜錫珪が代理海軍総長として復権し、林は再び下野に追い込まれた。後に国民政府から海軍部高等顧問として招聘されたこともあったが、基本的に政界からは引退している。 日中戦争(抗日戦争)勃発後は、林建章は日本占領地域にとどまる。梁鴻志らから南京国民政府海軍総長就任を持ちかけられたことがあったが、林はあくまでこれを拒絶した。 1940年(民国29年)6月14日、病没。享年67。
※この「杜錫珪との抗争」の解説は、「林建章」の解説の一部です。
「杜錫珪との抗争」を含む「林建章」の記事については、「林建章」の概要を参照ください。
- 杜錫珪との抗争のページへのリンク