つかの間の国務総理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 14:45 UTC 版)
1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、呉佩孚、馮玉祥の下で政界に復帰する。1922年(民国11年)8月、陸軍総長に就任し、さらに翌年1月、国務総理兼陸軍総長となった。しかし、国務総理となってからは、総統黎元洪とともに南方政府との和平路線を唱え、武力統一路線を唱える呉や曹錕とは対立するようになる。同年6月、対立の果てに黎、張はともに辞任に追い込まれた。 その後も政界への復権を図る張紹曽は、天津に隠居しながらも、北方各派に連絡をとって活動を続けた。しかし、容易に復帰することはできなかった。1928年(民国17年)、張紹曽は、馮玉祥と連絡を取り合い、張作霖討伐を画策する。しかし、これを察知した張作霖が放った刺客により、張紹曽は同年3月21日に狙撃され、翌朝死亡した。享年49。
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