つかの間の外交部長
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1941年(民国30年)4月、郭泰祺は本国へ召還され、王寵恵の後任として外交部長に任ぜられた。郭は反蔣派の人物であり、蔣介石は本来は自己の側近である王世杰を後任に望んでいたが、王世杰と不仲の陳果夫がこれを望まず、その運動の結果、郭が任ぜられたのである。郭は汪兆銘の南京国民政府を承認した国家につき断交を進めるなどした。しかし同年12月、郭は突然外交部長を罷免され、国防最高会議外交委員会主席に異動させられた。理由については対米交渉での蔣介石との意見対立、あるいは多額の官邸修築費用を非難された、などが言われているが、はっきりしない。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央監察委員に再選された。 日中戦争終結後の1947年(民国36年)4月、郭泰祺は国際連合安全保障理事会の中国首席代表に任命され、7月にそのまま安保理常駐代表を務めている。同年12月にブラジル大使へ転じ、1949年まで務めた。中華人民共和国が成立すると、共産党指導者が郭の帰国を歓迎するとの打診を行ったが、この頃にはすでに郭は病に倒れており、帰国はできなかった。1952年2月29日、アメリカカリフォルニア州の病院で死去。享年66(満64歳)。
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