山東省統治とは? わかりやすく解説

山東省統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 17:51 UTC 版)

韓復榘」の記事における「山東省統治」の解説

北伐終了後1929年民国18年)、馮玉祥蔣介石対立激化し、ついに衝突不可避となる。しかし5月22日韓復榘馮玉祥への追随放棄し、第20師の旧部下たちと謀り蔣介石帰順した1930年民国19年)の中原大戦では、韓復榘第1軍団総指揮として、閻錫山率い山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月韓復榘山東省政府主席任命された。 以後7年強の間、韓復榘山東省統治することになる。韓復榘密かに日本一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東支配者だった張宗昌暗殺した。さらに、国民革命軍一員である第17軍軍長劉珍年を駆逐し国民党山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓復榘は、山東省強力な自治圏として確立し国民政府中央の統制弱体化させたのである。なお、韓復榘この間に、思想家梁漱溟招聘して郷村建設運動大規模に展開したり、産業振興したりするなど、省政面でも一定の功績残した

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山東省統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:04 UTC 版)

田中玉」の記事における「山東省統治」の解説

1919年民国8年11月田中玉山東督軍任命された。しかし、山東省長の屈映光は、同じ安徽派ではあったが、権力地盤争いから田と対立した当初、第47旅旅長馬良連携する屈の前に、田は劣勢であった1920年民国9年7月安直戦争勃発すると、田は主戦場には赴かず、山東に留まった。その後安直戦争での安徽派敗北に伴い、屈が失脚して、田は山東省での実権掌握する勝利した直隷派も、様々な事情から、田をそのまま留任させざるを得なかった。 1923年民国12年5月山東省江蘇省との省境の臨城で、匪賊による外国人を含む鉄道乗客誘拐事件発生した田中玉は、北京政府から解決命じられ、田は自ら匪賊交渉して乗客解放させた。しかし外国使節団は、事件発生責任を問うために田を罷免するよう北京政府圧力をかける同年10月、田は山東督軍罷免された。以後、田は軍事政治の舞台離れ大連実業家として活動した1935年民国24年)、田中玉大連病没した。享年67(満66歳)。

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