山東省統治
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北伐終了後の1929年(民国18年)、馮玉祥と蔣介石の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、韓復榘は馮玉祥への追随を放棄し、第20師の旧部下たちと謀り蔣介石に帰順した。1930年(民国19年)の中原大戦では、韓復榘は第1軍団総指揮として、閻錫山率いる山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月、韓復榘は山東省政府主席に任命された。 以後7年強の間、韓復榘は山東省を統治することになる。韓復榘は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった張宗昌を暗殺した。さらに、国民革命軍の一員である第17軍軍長劉珍年を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓復榘は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓復榘はこの間に、思想家の梁漱溟を招聘して郷村建設運動を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。
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山東省統治
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1919年(民国8年)11月、田中玉は山東督軍に任命された。しかし、山東省長の屈映光は、同じ安徽派ではあったが、権力・地盤の争いから田と対立した。当初、第47旅旅長馬良と連携する屈の前に、田は劣勢であった。1920年(民国9年)7月、安直戦争が勃発すると、田は主戦場には赴かず、山東に留まった。その後、安直戦争での安徽派の敗北に伴い、屈が失脚して、田は山東省での実権を掌握する。勝利した直隷派も、様々な事情から、田をそのまま留任させざるを得なかった。 1923年(民国12年)5月、山東省と江蘇省との省境の臨城で、匪賊による外国人を含む鉄道乗客誘拐事件が発生した。田中玉は、北京政府から解決を命じられ、田は自ら匪賊と交渉して乗客を解放させた。しかし外国使節団は、事件発生の責任を問うために田を罷免するよう北京政府に圧力をかける。同年10月、田は山東督軍を罷免された。以後、田は軍事・政治の舞台を離れ、大連で実業家として活動した。 1935年(民国24年)、田中玉は大連で病没した。享年67(満66歳)。
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