梁漱溟とは? わかりやすく解説

リアン‐シューミン【梁漱溟】

読み方:りあんしゅーみん

りょうそうめい(梁漱溟)


りょう‐そうめい〔リヤウ‐〕【梁漱溟】


梁漱溟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/09 00:35 UTC 版)

梁 漱溟
Who's Who in China 5th ed. (1936)
プロフィール
出生: 1893年10月18日
光緒19年9月初9日)
死去: 1988年6月23日
中華人民共和国 北京市
出身地: 直隷省順天府
(現:北京市)
職業: 政治家
各種表記
繁体字 梁 漱溟
簡体字 梁 漱溟
拼音 Liáng Shùmíng
ラテン字 Liang Shu-ming
Liang Shou-ming
和名表記: りょう そうめい
発音転記: リャン シューミン
テンプレートを表示

梁 漱溟(りょう そうめい)は、近代中国思想家。祖籍は広西省桂林県1911年に順天中学を卒業した。

1917年蔡元培学長に招かれ、北京大学の教授となり、インド哲学を講じた。

その後、1928年に「村治」として提唱した自らの思想的実践を果たすために、郷村建設運動に没頭し、儒教の精神に法った農村社会運動家、教育家として、山東省の郷村建設の指導を行った。また、日本二宮尊徳を敬愛したことでも知られている。

第二次世界大戦中は、1941年に結成された中国民主政団同盟に参加し、国共両陣営の橋渡し役を演じ、民主同盟の結成に参画した。

1946年、政治協商会議後にいったん引退した後、人民政府の成立後、四川省の土地改革に参加した。1951年、中国人民政治協商会議委員に補選され、思想改造の手記を公表した。毛沢東ら共産党中央が、農民の生み出す余剰を搾取し、都市における工業化に投入する、という社会主義過渡期の総路線政策に転換したのに対して、農民こそが中心であるとし、政治協商会議の場で毛沢東に対して自己批判を求めた。このため、1955年以降、思想批判にさらされ、1956年の中国人民政治協商会議第2次全体会議で自己批判を行った。


著書

  • 『東西文化とその哲学』
  • 『郷村建設理論』

関連書籍

  • 戴晴『毛沢東と中国知識人』東方書店



梁漱溟と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「梁漱溟」の関連用語

梁漱溟のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



梁漱溟のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの梁漱溟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS