袁希濤とは? わかりやすく解説

袁希濤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 15:47 UTC 版)

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袁希濤
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1866年10月11日
同治5年9月初3日)
死去: 1930年民国19年)8月29日
中華民国 (国民政府)上海市
出身地: 浙江省杭州府
職業: 政治家・教育者
各種表記
繁体字 袁希濤
簡体字 袁希涛
拼音 Yuán Xītāo
和名表記: えん きとう
発音転記: ユエン シータオ
ラテン字 Yüan Hsi-t'ao
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袁 希濤(えん きとう)は、清末民初の政治家・教育者。北京政府で教育総長を務め、また義務教育確立の運動に尽力した。号は観瀾。祖籍は江蘇省宝山県

事績

上海竜門書院を卒業後、1896年光緒22年)秋に丙申科挙人となる。翌年、江南製造局に招聘され、広方言館教授となった。1903年(光緒29年)、宝山県において県学堂・蒙学堂(盲学校のこと)を創設した。翌年秋には、日本へ教育事業の視察にも赴いている。この後、復旦公学(後の復旦大学)の創設事業に参加するなど、各地で教育振興事業に携わった。このほか、直隷提学使傅増湘の招聘に応じて、天津で教育事務に就き、また、張相文らとともに地理学会を創設した。辛亥革命が勃発すると、故郷に帰っている。[1]

中華民国が成立した後の1912年民国元年)5月、袁希濤は北京政府の教育部普通教育司司長などの職に就いた。1915年(民国4年)10月、教育部次長に昇進する。1919年(民国8年)5月、教育総長傅増湘の辞任を受けて、1か月のみ代理総長を務めた。翌月、教育次長を辞職する。それからまもなく、袁は欧美(欧米)教育参観団を組織して、視察の外遊に赴いた。[1]

1921年(民国10年)に帰国すると、袁希濤は江蘇省教育会会長に選任された。また、義務教育期成会の組織につき発起人となった。このほか、郷村師範学校設立を提唱し、義務教育基盤の整備・確立のための運動に従事している。1930年(民国19年)8月29日、上海にて病没。享年65(満63歳)。[1]

著作

  • 『游華嶽記』1912年
  • 『宝山袁霓孫先生事略』1912年
  • 『義務教育之商榷』1921年
  • 『義務教育』1929年

  1. ^ a b c 徐主編(2007)、1107頁。

参考文献

  中華民国北京政府
先代:
傅増湘
教育総長(代理)
1919年5月 - 6月
次代:
傅嶽棻




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