奉天特務機関長・貴志弥次郎のサポート
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「吉薗周蔵」の記事における「奉天特務機関長・貴志弥次郎のサポート」の解説
大正9年(1920年)5月、上原の指令により中国に渡り、大連で「満州東亜煙草」の権利者となる設立の手続きを行った後、奉天に移る。奉天での主な任務は、奉天特務機関長となった貴志弥次郎を民間の立場から支援するというものであった。これまでに貴志と面識のあった周蔵は貴志に会えるのを楽しみにしていたが、奉天に来て貴志の立場が悪いことを知る。 貴志は張作霖との懇親の為に派遣されており、資金作りの最中にある張作霖への協力も任務の1つであった。具体的には張作霖が皇帝溥儀から奪った美術品(古陶磁器)を、軍資金として調達するための売却工作である。上原の方針で売却先は紀州徳川家に決まっていたが、資金事情の為商談が延び延びになっていた。更には、当初大陸浪人の上田恭輔が利権を握った満鉄大連本社の窯業研究課に、関東軍の浜面又助参謀長がどっぷりと漬かりこんで張作霖の宝物の倣造品造りを行っていた。上田の説明を受けながら見た張作霖の宝物は日本では見た事のない見事なものであったが、倣造品もまた本物と見分けがつかない程見事な出来であった。紀州徳川家に売却する指令を受けていた貴志は、この倣造品が後々問題になるのではないかと危惧していたのである。 これに対処するため、周蔵は張作霖に宝物の実物を見せてもらい、実物の絵図を書き付ける事とする。全てを書き写す事は出来なかったが、時間の許す限り書き写した周蔵は、「自分がこういうことをしたるという事が、ある種の威嚇となるを願うだけの犬の遠吠えである」と手記に残している。 同年8月に奉天を発つ際に、張作霖から手元で使っている箸立て、壺、硯の水入れを贈られる。その後、朝鮮に寄って太白山の罌粟の種を入手する事にしていた周蔵は、平壌から北上して清川江に沿って上流を目指し、太白山脈に沿って釜山まで南下する途中、平安南道价川で罌粟畑を視察。その後、原因不明の病が発症し、高熱でほとんど意識のない中、日本に帰国。後に周蔵の妻となる池田巻のアイヌ式看病のお陰で一命を取り留めた。
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