奉勅攘夷の実行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 23:55 UTC 版)
5月10日、「国土が焦土になっても開港交易は認めない(譬皇国一端黒土成候共開港交易ハ決而不好候)」とする天皇の書簡(宸翰)が発せられた。 長州藩は同日、関門海峡を通過したアメリカ船に砲撃を加え、その後も外国船への砲撃を実施する。だが、朝廷の求める攘夷を武力で実行に移したのは一般に長州藩だけとされ、6月にはアメリカ、フランスの軍艦が下関の砲台に報復攻撃した。実際には長州藩のほか、鳥取藩から大坂湾警備(藩主の池田慶徳は朝廷から「摂海守備総督」に任じられていた)についていた兵士が6月14日に天保山沖のイギリス船に5発の砲撃(弾着せず)を実施した。 生麦事件の当事者だった薩摩藩に対しては、7月にイギリスの軍艦が犯人引き渡しと賠償金を求めて鹿児島に来港し、交渉決裂に伴って鹿児島市街を砲撃した(薩英戦争)。しかし、島津久光は前記のように急進的攘夷論とは距離を置く立場で、生麦事件も偶発性の高いものだった。イギリスとの交戦は先方の主張を受け入れる形で停戦し、「破約攘夷」が目的ではなかったものの、結果として「攘夷戦争」に敗北した。
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