極東から世界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:04 UTC 版)
第二次世界大戦中、インドシナ銀行は横浜正金銀行を相手方に、仏領インドシナを占領中の日本軍へ軍事費を貸し付けた。戦後はCFAフランと海外領土を足場にアフリカとラテンアメリカへ進出した。本国でも多数の企業に参加したが、パリバの支配力に遠く及ばなかった。インドシナ銀行の1953年投資額割合は、先のアフリカとアメリカ、そして欧州がそれぞれ25%で、インドシナは東南アジアと合わせて18%であった。1964年には、資産の約4割がフランスの植民地または従属国で活動する会社に配分されていた。1960年前後にはラザードがパリバに10%も参加した。ラザードはインドシナ銀行にも参加し、役員も派遣した。ラザードはソフィナの筆頭株主でもあったので、ロチルドに近いベルギーのアンタントから浸潤したものと評価できる。インドシナ銀行は1966年、ベルギーのアンパン財閥の持株会社エレクトライル(Electorail)および200家族シュネーデル系のユニオン・ユロペンヌ・アンドュストリエル・エ・フィナンシエール(これらはつまりシュナイダーエレクトリックの前身)と相互に提携し、低比率で株式の持合いを行った。1967年にはスエズ金融と提携し3つの投資信託会社を設立した。保険業にも進出している。 1970年11月、アシュランス・ドュ・グループ・ド・パリ(Assurance du Groupe de Paris)とコンパニ・ダシュランス・アベィユ・エ・ペ(CAAP)の合併が双方の役員会で承認された。新グループの持株会社の役員として合併する双方が7名ずつ送り出したが、インドシナ銀行はAGP側の1名を派遣した。AGPという保険トラストには、インドシナ銀行と関係が深いラ・パターネルという企業が統合されていた。インドシナ銀行は統合の際、AGP保険資本の16%を提供した。しかし、ラ・パターネルはAGPに派閥をつくってインドシナ銀行を締め出そうとした。1972年5月23日、親会社Paternelle SA.が、アンパンとシュネーデルからインドシナ銀行株を大量に買いつけて44%以上を取得してしまった。数日後、インドシナ銀行はAGPの株式7.7%をスエズ金融の子会社に譲渡して、スエズ金融グループにAGP資本の過半数である56%を保有させた。6月24日、インドシナ銀行とパターネルはスエズ金融を交えて一応の和解に至った。1974年、インドシナ銀行はスエズ金融の中核事業銀行バンク・ド・スエズ・エ・ド・リュニオン・デ・ミンと合併した。
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