極東における記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 08:50 UTC 版)
「産業化以前の装甲艦」の記事における「極東における記録」の解説
アジアにおける初期の船の装甲はおそらく船の下部に保護の目的で張られた薄い金属膜に起源を持つだろう。208年の赤壁の戦い において、軍船は炎から保護するために濡れた獣皮で覆われていた。 1130年になると、黄天蕩の戦いにおいて 金の船乗りは、オールの穴があいた素材不明の舷墻(甲板の両舷側に設けた柵)を船に設置していた 。また宋 の将軍 Qin Shifuが導入した二隻の外輪船は、側面が鉄板で保護されていると記されている。 1578年に、日本の 大名 織田信長 は「鉄甲船」と呼ばれる六隻の鉄張りの大安宅船 を建造し、第二次木津川口の戦いにてこれらを用い毛利氏を破ったと推測される。しかし鉄板による装甲を直接的に示している同時代の史料は『多聞院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。このため、信長の鉄甲船が鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている。 信長の鉄甲船はいまだ謎に包まれているが、秀吉が鉄の装甲を持った大型船を建造したことは『フロイス日本史』に明確に記述されている。 「名護屋からジョアン・ロドゥリーゲスは一書簡を送付してきたが、彼はその中で次のように述べている。「関白はこのたびの朝鮮征服のために幾隻か非常に大きい船舶を建造させました。それらの舟は、すべて水面から上は鉄で覆われ、中央に船楼を有します。相互に通じる船橋は、いずれも鉄が被せられ、木(造部)は露出していません。そして全て甚だしく美しく塗金されています」 豊臣秀吉の朝鮮出兵において李氏朝鮮軍が用いたと記録される亀甲船はしばしば鉄張りの装甲を持っていたとされるが、朝鮮側の資料には鉄張りだったという記述はない 。亀甲船の考案者とされる 李舜臣の日記では、「乗船(移乗攻撃)しようとしてきた敵を串刺しにする鉄のトゲが背面に設置されていた」とは書かれているものの、鉄張り装甲については記述がない。 彼の甥もまた、デッキ上に“鉄のトゲ”があったとのみ記述している。 朝鮮の宰相である柳成龍 は明確に亀甲船は「木の板で上部が覆われている」と記述している。 防火・防蝕を目的とするものであるものの、徳川秀忠が幕府御船手頭向井忠勝に建造させた史上最大級の安宅船「安宅丸」は、総櫓及び船体の総てに銅板貼りが施されていた事が幕府の公式な記録から確認されている。鉄板を貼るよりは費用が高くつくものの、理論上は塩分に対する耐久性は高くなる。この船は50年近く運用された。
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