日本への飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/17 06:23 UTC 版)
「Ju 290 (航空機)」の記事における「日本への飛行」の解説
1941年6月のソ連侵攻後、超長距離飛行用に改造した「ルフトハンザ航空」の機体を使用したドイツと日本を結ぶ連絡飛行が計画された。「ルフトハンザ航空」の極東への商業飛行は既に不可能となっており、船舶やUボートを使用しての海路での航行は非常に危険な状況になっていた。エアハルト・ミルヒ元帥は、この直通飛行の可能性評価の研究を承認した。ドイツ占領下のロシア、ブルガリアといった出発地点が考慮されたが、最終的に北極海を渡る大圏コースを辿り、シベリア東部を横切り、満州で燃料補給をしてから日本へ至る飛行の出発地点にはフィンランド北部のイナリ湖近郊のNautsiが選ばれた。 1943年にこの飛行用にJu 290が選定され、1944年2月に45トンの燃料と貨物を搭載したJu 290 A-5(製造番号:0170、登録記号:KR+LA)によるテストが開始された。1943年3月に3機のJu 290 A-9(製造番号:0182、0183、0185)がユンカースの工場で長距離飛行用に改装された。最終的にこの計画は、シベリア領空を飛行することでソビエト連邦を刺激したくない日本側が飛行コースに同意しなかったために無期延期となり、この3機はKG200に配備された。1944年中に0182はロシアでの戦闘で失われ、0183はトラフェミュンデで破壊され、0185はロシアでの任務後に修理不能となった。 日本への飛行計画は1944年12月に復活し、その主要な任務は東京のドイツ空軍駐在武官の交代のためにウルリッヒ・ケスラー(Ulrich Kessler)将軍を運ぶことであった。Ju 290 A-3(製造番号:0163)が必要な改修のためにトラフェミュンデに運ばれたが、作業が遅れたことでケスラーは潜水艦U-234に乗って日本へ向かうことが決まった。この機体は1945年3月に英国軍が到着したときに破壊された。
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日本への飛行
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「BV 222 (航空機)」の記事における「日本への飛行」の解説
1941年6月のロシア侵攻後にルフトハンザ航空による極東への商業飛行が不可能となり船舶やUボートによる海路は非常に危険であったため、超長距離飛行用に改造を施したドイツ空軍の航空機でドイツと日本を結ぶ空路を開拓する計画がなされた。エアハルト・ミルヒ空軍元帥は、無着陸飛行、ドイツ占領下のロシアやブルガリア発を含む様々な航空路やBV 222を使用し、ノルウェー北部のヒルケネス発 - 樺太経由 - 東京行きの6,400 km (4,000 mi)の海路の可能性調査を承認した。 BV 222はフォッケウルフ Fw 200、ハインケル He 177と共に本命とされる3機種の中の1機であった。He 177は信頼性の観点から除外され、1943年にユンカース Ju 290がこの飛行用に機種選定された。
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