日本への食糧・物資援助と貸与とは? わかりやすく解説

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日本への食糧・物資援助と貸与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:21 UTC 版)

連合国軍占領下の日本」の記事における「日本への食糧・物資援助と貸与」の解説

第二次世界大戦後日本本土では燃料不足交通および流通網の損害、さらに友好国占領地を含む諸外国からの輸入途絶えたことなどによる食糧不足進み海外からの食料援助貸与受け入れることを余儀なくされた。日本受けた支援は、ユニセフからの援助と、ララ物資ケア物資民間団体などである。アメリカ政府からはGARIOA2、EROA3に代表されるGHQ経由した物資輸出貸与)が挙げられるアメリカから食料支給は、日本輸入禁止解きアメリカ要望受け入れたことへの見返りでもあり、1954年昭和29年)に施行されアメリカ余剰農産物処理法最大対象先に日本指定されたためである。しかし間もなく農業漁業交通網復興したことでこのような援助必要なくなった。 初期対日方針 連合国占領目的巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50ドル)と労働力日本政府負担させる一方で日本の経済困窮日本責任であると切り捨て日本国民努力まかなうこととした。1945年昭和20年9月22日降伏後二於ケル米国初期対日方針」には、「日本国民経済上の困難と苦悩日本の自らの行為結果であり、連合国復旧負担負わない日本国民軍事的目的捨てて平和的生活様式向かって努力する暁にのみ国民再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。 1945年昭和20年11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官対す降伏後における初期基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本いずれの特定の生活水準維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。1945年昭和20年12月3日指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去占領軍への協力徹底かかっている」と記載されている。 食料輸入禁止 占領期日本海外との自主的な貿易渡航禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQ統括していた。 1945年昭和20年9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQ提出日本政府は、1945年産米収穫量を5500万石予想し穀類300トン砂糖100万トンコプラ30トンヤシ油5万トン輸入要請したが、極東委員会対日食糧輸出不要論遭い食糧物資輸入許されなかった。本国大きな戦争被害受けていたイギリス中華民国ソ連フランスなどは日本食料輸出する余裕はなく、またアメリカ世界的食糧不足解放地域からの援助要請殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年昭和21年2月、「日本にはいかなる食糧輸出できない」と回答する食糧メーデー 1946年昭和21年5月19日食糧求めデモ東京各地繰り広げられた。およそ25万人民衆皇居前に結集。「食糧メーデー」と呼ばれる大規模なデモ発展する民衆食糧飢餓への批判GHQではなく日本政府向けられていた。 米国からの食糧輸出解禁 1946年昭和21年2月GHQ日本への食糧輸出禁止対し、「輸入食糧によって日本の食配給制度持続しなければ占領政策困難な事態直面する」とアメリカ政府抗議した3月アメリカ農務長官クリントン・プレスバ・アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー大統領)が来日調査しGHQ要請支持し1946年昭和21年5月から10月日本に対して長年月及んだ経済封鎖解かれ68トン食糧輸出されることになった。この輸出量は、日本側が当初要望していた量の25 %であった1946年昭和21年7月からエロア資金による援助プログラム始まり1948年昭和23年)からはガリオア資金吸収されるアメリカ政府国内余剰物資買い付け、その資金貸与である。ガリオア物資による援助対象品目としては、米(11566トン)、小麦5059307トン)、塩(516312トン)、砂糖796956トン)、缶詰161935トン)などの食糧加えパルプ・紙(3254トントン)、肥料3135360トン)、化学医薬品(1099988トン)、牛など動物1万179頭)。 1954年昭和29年)のアメリカ余剰農産物処理法により、日本への輸出増え、とくに小麦日本人常食米食からパン食移行させる日米方針により、日本引き受けた余剰物資約半分上った。しかしこの頃には日本の農業漁業流通網は完全に回復しており援助としての食糧輸入不要であった。なおアメリカからの援助目的輸入総額1961年昭和36年)の通産省認定では17ドルから18ドルとされ、1962年昭和37年1月日本政府西ドイツ返済率にならって4億9000ドル15年かけて返済することに同意したララによる支援ララ物資」も参照 1946年昭和21年11月から1952年昭和27年6月までに行われた救援物資アメリカ国内反日感情根強い中、サンフランシスコ在住日系アメリカ人浅野七之助によって生まれた日本向け支援団体アメリカ国内日系宗教団体労組社会事業団体等13団体により組織されていた。アメリカのみならずカナダブラジルアルゼンチンなど多数の国にまたがり多く民間人民間団体からの資金物資の提供であったためその救援総額不明であるが、推定当時金額400億円とされている。 南北アメリカ大陸在住日系人寄付中心であったが、日本国内での物資配付にあたってGHQ意向により日系人関与については秘匿され、「アメリカからの援助物資」として配付されていた。ララ物資贈呈式記念して12月24日学校給食記念日としている。 ケアによる支援 元々は1945年6月に、やはり戦災見舞われヨーロッパ困窮者に食糧衣料などの援助物資発送するために、アメリカ22団体協力して設立されNGO日本対す支援1948年昭和23年)から始まり1955年昭和30年)までの8年間、学童青少年対象食糧衣料医薬品学用品寝具類などを無償配布した。8年間にわたった日本への援助総額は約290ドル当時)。 ユニセフによる支援 1949年昭和24年)からユニセフミルクとユニセフ原綿衣料品送られ児童給食衣服加工して配給したユニセフからの支援主権回復後続き1964年昭和39年)までに約65億円(当時)の支援受けた

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