主要な任務
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月面着陸のための予行演習では、スタッフォードとサーナンが搭乗する着陸船「スヌーピー」は月面から8.4海里 (15.6km) のところまで接近した。実際の飛行では、この地点から着陸のための逆噴射を始めることになっている。この接近軌道を実行することで、着陸のために必要な1海里 (1.9km) 以内でのエンジン噴射降下ガイダンスシステムを測定するのに必要な月の潜在重力に関する知識を高めることになっていた。地上での実験、無人探査機、そしてアポロ8号での調査では、この測定高度をそれぞれ200海里 (370km)、20海里 (37km)、5海里 (9.3km) としていた。この最終的な延伸を除けば、飛行はNASAの管制や広範囲な追跡およびコントロールのネットワークにおいて、宇宙でも地上でも実際に飛行が行われたかのように正確に進行した。 地球周回軌道を離れた直後に司令船は第三段S-IVBを離れ、方向を180°転換し、S-IVBに格納されている着陸船とドッキングした。その後司令・機械船と着陸船は一体となってS-IVBから離れ、月への旅に向かった。 10号では初めてカラー撮影のテレビカメラが搭載され、宇宙からテレビ中継が行われた。 スタッフォードとサーナンが着陸船スヌーピーで月面に向かって降下している間、ヤングは司令船チャーリーブラウンに一人で搭乗し、月周回軌道で待機していた。着陸船はスイッチが誤ったセッティングをされていたため一瞬不規則な回転運動を始めたが、飛行士が対応して乗り切った。スタッフォードたちはレーダーや上昇用エンジンを点検し、11号の着陸予定地点である静かの海を観測した。着陸船の上昇段には、もし仮に月面から離陸しても、上空を周回している司令・機械船まで到達できるだけの燃料は搭載されていなかった。史上初の月面着陸をした11号に搭載されていた燃料は33,278ポンド (15,095kg) だったのに対し、10号には30,735ポンド (13,941kg) しか積まれていなかったのである。歴史家のクレイグ・ネルソン (Craig Nelson) は、NASAはスタッフォードとサーナンが月面に着陸してしまわないよう予防していたのだと書いている。彼はサーナンのこんな発言を引用している。「我々のような立場に置かれた人間のことを考えるとき、多くの人々はこう考えるだろう。『あいつらに着陸する機会なんか与えるな。なぜなら絶対にやってしまうだろうからな!』と。だから我々が月の表面から脱出するための上昇段には、十分な燃料が搭載されていなかったのだ。燃料タンクは満タンではなかった。だからもし我々が本当に月面に着陸してしまっていたら、帰還することはできなかった」。サーナンは自身の回顧録の中で、「我々の着陸船LM-4は…重すぎて月面着陸のための安全係数は保証できなかった。」と記述している。 下降段を分離してエンジンに点火すると、上昇段は激しく回転を始めた。これは飛行士が偶然コンピューターに、軌道分離と点火のための正しい数値を入力して緊急脱出モードを解除する指令を、二重に与えてしまったためだった。このときサーナンとスタッフォードが着陸船の制御を取り戻すまでの間、罵り言葉を話すのが生中継で放送されてしまった。サーナンはこのとき、月の地平線が8回回転するのを目撃したと語っている。これは上昇段のエンジンが噴射されたままで機体が8回回転したことを意味しているが、NASAはこの事態を回復不能な状態になる以前のいくつかの回転にすぎないと軽視していた。 司令船が帰還したのは1969年5月26日16時52分23秒 (UTC) で、着水点はサモア諸島の東方およそ400海里 (740km) であった。飛行士たちは空母プリンストンに回収され、サモア諸島タフナ (Tafuna) のパゴパゴ国際空港に式典のために移送された。その後はC-141輸送機でホノルルまで送られた。
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主要な任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 02:18 UTC 版)
スカイラブ本体に接近する間、アポロ宇宙船の4箇所ある姿勢制御用ロケット (Reaction Control System, RCS) のひとつから燃料漏れが発生した。ドッキング自体は無事に完了し問題への対処は続けられたが、その6日後もう1箇所のRCSからも燃料漏れが発生し、管制センターに懸念が広がった。スカイラブは同時に2機のアポロ宇宙船とドッキングすることが可能なため、当初はもう1機のアポロを救出船として39番発射台から打ち上げることが検討された。8月4日にはレスキューミッションの打ち上げが9月10日に決定し、クルーのトレーニングと機体の準備が急ピッチでされたが、司令・機械船はRCSが2箇所あれば安全に操縦できるため、救出船を送る必要はないと最終的に決断された。(この時準備されたCSM 119は現在ケネディ宇宙センターのアポロ・サターンVセンターに展示されている。) 第一回の船外活動 (Extravehicular Activity, EVA) で、飛行士らは2本の柱を持つ日よけを設置した。スカイラブ本体は発射の際、熱保護も兼ねた微小隕石保護シールドが脱落していた。これによって上昇した船内の温度を下げるため、二つの対策が施された。一つは折りたたみ傘のような日よけを、船内にある機材放出口から差し出し展開するという暫定的なもので、これはスカイラブ2号ですでに成功していた。3号の飛行士が行ったのは、これに覆い被せるようにしてさらに大きな日よけを取りつけるという最終作業で、機材はどちらも2号がスカイラブに持ち込んでいた。 3号では包括的な医療研究が継続され、前の2号で収集された、宇宙飛行への人間の生理学的な適応・再適応の能力に関するデータがさらに充実された。また飛行士の宇宙滞在の期間が約1ヶ月から2ヶ月にまで伸びたことにより、飛行時間が生理学的な適応・再適応の能力に与える影響も検証することができた。 スカイラブの3回の飛行では、いずれも一連の核心的医療調査が行われた。それらの核心的調査は2号で行われた基礎調査と同じものだったが、3号の飛行中に行われたものは研究者らが2号の科学的結果から学習したものにもとづき、追加の試験が補充されていた。たとえば脚部だけの体積の測定、飛行前と飛行後の立体写真計測、そして飛行中のふくらはぎの周囲の寸法の最大値の計測などは、元々はスカイラブの3回の飛行すべてで予定されていたものだった。 2号で撮影された写真から、飛行士たちには「顔のむくみ」の症状が現れていることが明らかになった。これにより3号では、頭部への顕著な体液の移動についてより多くのデータを集めるため、飛行中の胴回りと足回りの寸法の計測を追加で行うことになった。その他に追加された試験には、1. 脚部にカフ (血圧計) をつけての動脈圧の測定 2. 飛行前と飛行中の顔写真を比較しての「顔のむくみ」の症状の調査 3. 静脈の伸展性の計測 4. ヘモグロビンの測定 5. 尿の比重や質量などの測定 などがあった。これらの飛行中検査は、体液移動の現象について理解を深めるべく、体液の分布や体液のバランスになどついてさらに多くの情報を与えた。 3号では無重力が生体に与える影響を検証するため、ネズミ、ショウジョウバエ、単細胞生物、細胞培養液などを用いて生体実験が行われた。また人間の肺細胞が細胞培養液に入れられ、微少重力環境における生化学的な特徴の検証のため搭乗員らと一緒に飛行した。「ポケットマウスの時間生物学」と「キイロショウジョウバエの24時間の生体リズム」と題された二つの動物実験は、どちらもロケット発射から30時間にわたって停電が発生し実験動物が死んでしまったため、不成功に終わった。 スカイラブの実験にはアメリカ中の高校生も参加し、天文学、物理学、基礎生物学などで研究が行われた。生徒たちが提案した実験項目には、コーディレフスキー雲・木星からのX線・実験免疫学・原形質流動・質量測定・中性子の分析などの研究から、「宇宙空間でクモは巣を張れるか」というものもあった。 飛行士らの健康状態は、口腔衛生・環境と飛行士の微生物学・放射線・スカイラブ軌道実験室の毒物学的観点などのデータを集めた上で、スカイラブの中で判断された。他の評価項目には操縦装置や船室の居住性などがあり、飛行士の活動やメンテナンスの実験は、2号から4号を通して宇宙での生活や仕事という観点をよりよく理解するため検証された。
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主要な任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 17:22 UTC 版)
アポロ9号は、司令・機械船およびサターン5型ロケットの他に、月着陸船というアポロ計画の遂行においてきわめて重要となる第三の機器を搭載した、いわば「アポロ宇宙船」を初めてフルセットで装備して打ち上げられた飛行であった。 またこの飛行では、史上初めてランデブーとドッキングのあとに飛行士が船内を移動して宇宙船を乗り移った (ソユーズ4号と5号では、飛行士は宇宙遊泳をして移動した)。飛行士たちは10日間にわたり司令・機械船と着陸船を操縦し、月飛行で予定されているような軌道上での両船のドッキングや切り離しの試験を続けた。9号はアポロ宇宙船がこのような重要な任務を十分にやりこなせ、月面着陸をする飛行士たちの生命を預けるに足りるものであることを証明した。 アポロ計画ではこの9号から最後の17号に至るまで、飛行士たちは自らが乗る宇宙船に名称を与えることが許された (最後に宇宙船に命名されたのはジェミニ3号だった)。ちなみに9号では着陸船はそのひょろ長い形態から「蜘蛛 (Spider)」、司令・機械船は「ガムドロップ (Gumdrop)」と命名された。由来はその円錐形の形態と、ケネディ宇宙センターに運ばれてきたとき青色の保護膜で包装されていたことによる。またこの名称は、それぞれが独立して飛行するときの無線でのコールサイン (呼び名) としても使用された。 シュワイカートとスコットは船外活動を実行した。シュワイカートが実施したのは「Apollo/Skylab A7L」という新型宇宙服の性能試験で、これは従来のように宇宙船からホースで酸素を供給されるのではなく、独自の生命維持装置を持っているものである。またその間、スコットは司令船のハッチから身を乗り出してシュワイカートの姿をフィルムに収めていた。シュワイカートは宇宙服の性能試験のためにさらに広範囲な活動を行い、また緊急時に着陸船から司令船に船外活動で乗り移るのが可能であることを実証しようとしたが、宇宙酔いを患ったためにそれ以上の試験は中止された。 マクディヴィットとシュワイカートはその後着陸船の試験飛行を行い、地球周回軌道上で分離とドッキングの操作をした。このとき着陸船は下降段のロケットエンジンを噴射して「ガムドロップ」から最大で111マイル (179km) 離れ、その後下降段を分離し、上昇段のエンジンを噴射して再び司令・機械船に接近した。またこのときの飛行は、地球帰還のための装備を一切持たない宇宙船で軌道上を周回した初の実例となった。 着水点はバハマ諸島の東方北緯23度15分、西経67度56分で、回収船ガダルカナルから肉眼で確認できるほど正確な帰還だった。またアポロ計画で大西洋に帰還したのは9号が最後であった。 司令船はその後ミシガン州ジャクソンの科学センターに、同所が2004年4月に閉鎖されるまで展示され[要出典]、同年5月にサンディエゴ航空宇宙博物館に移転された。着陸船上昇段は1981年10月23日に、下降段 (国際衛星識別符号1969-018D) は1969年3月22日に大気圏に再突入して分解した。サターン5型ロケット第三段S-IVBは着陸船の抽出が終わった後にJ-2ロケットエンジンが再点火され、燃料が枯渇するまでエンジンを噴射して太陽を周回する軌道に乗せられた。 S-IVBはその後宇宙ごみとなり、永遠に太陽を周り続けることとなった。2014年3月現在、軌道上に存在していることが確認されている。
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主要な任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 08:25 UTC 版)
スカイラブ本体は5月14日の発射の際、深刻なダメージを負った。微小隕石保護シールドと主太陽電池板の一つが空気抵抗で脱落し、残った太陽電池板も破片がひっかかって展開できなくなっていた。シールドは太陽熱から機体を守る役割も兼ねていたため、船内の温度が上昇しはじめた。またこの熱でプラスチック類が溶けだし、発生した有毒ガスが搭載されているフィルムや食料を損傷させるおそれも出てきた。第一回飛行の搭乗員は翌5月15日に出発することが予定されていたが、技術者らが考案した修理方法を習得する訓練のために発射は延期された:253–255,259。一方地上の作業員は、船内を呼吸用の酸素と窒素の混合ガスで満たす前に、窒素ガスで4回にわたり浄化した。 5月25日、2号はケネディ宇宙センターの39B発射台から打ち上げられた。サターンIBロケットの発射はほとんど5年ぶりで、また39Bから打ち上げられるのはこれが二度目のことであった。ロケットの燃焼は平常通りに行われるものと思われたが、ほんの一瞬の不具合が生じたため、危うく計画全体がご破算になるところであった。点火の際、サターンロケットに指令信号が送られたとき、機器が誤って電源を内部から外部に切り替える指示を出したのである。これはロケットの推進システムではなく、電気系統を停止させることになるような指令だった。仮にそのような事態になっていたら、サターンIBは電源を失ったままロケットエンジンに点火されていた可能性があった。飛行士を乗せた司令船は緊急脱出用ロケットが作動して本体から切り離され、さらにコントロールを失ったロケット本体は自爆装置が作動して爆破されるという最悪のシナリオが待っていた。だが停止信号が送られた時間は1秒にも満たず、ロケットの電気系統が反応するには時間が短すぎたため、実際には何事も起こらず発射はそのまま進行した。この故障は後にその過程が追跡され、発射台の電気系統には改良が施され、同じような事故が二度と発生しないよう適切な手段がとられた:269。スカイラブに到達すると、コンラッドは アポロ司令・機械船 (Command Service Module, CSM)を操縦してスカイラブの周囲をまわり、損傷の具合を検査した。その後飛行士が食事をしている間に軌道修正をするようなことになるのを避けるため暫定的なドッキングをし、その間地上の管制官は最初の修理の方法について検討した。その後宇宙船はステーションを離れ、コンラッドが引っかかっている太陽電池の横にCSMを移動させた。ウェイツは司令船のハッチから身を乗り出し、太陽電池板を展開させるべく船外活動 (Extra-Vehicular Activity, EVA) でフックのついた長さ10フィート (3メートル) のロープを引っかけた。この間、カーウィンは船内からウェイツの足を押さえていた。この試みは結局失敗し、また作業の間スカイラブは位置を安定させようとしていたため、姿勢制御装置の窒素ガスを相当量消費した。 その後第二回修理作業のため確定的なドッキングを行おうとしたが、ドッキング装置の留め金がうまく作動せず、8回試みた後にようやく成功した。飛行士らは再び宇宙服を着用し、トンネルの中にある司令船の探針装置を取り除き、ステーションの中に入った。彼らは折りたたみ傘のような日よけを、科学機器などを船外に出すための小さな機材放出口から差し出し、展開させた。この修理法はNASAで「ミスター修理屋 (Mr. Fix It)」とあだ名されていたジャック・キンズラー (Jack Kinzler) が考案したもので、彼はこの功績によりNASA功労賞を受賞した。日よけの展開は成功し、船内の温度は安定したレベルまで下降した。 2週間後、コンラッドとカーウィンは第二回のEVAを行い、ようやく引っかかっていた太陽電池を展開し作業室の電力を増加させることに成功した。彼らはこの作業の準備のため、マーシャル宇宙飛行センターの巨大なプールに沈められたスカイラブの模型で潜水訓練を行い、無重力状態での修理作業を体感していた。太陽電池からの電力がなければ第二回、第三回の飛行では主要な科学実験を行えず、またラブの緊急用電源システムは品質が極度に低下しているところであった:271–276。この作業の間、太陽電池板がとつぜん展開したため両名はあやうく船体からはじき飛ばされそうになり、命綱の強度とともに彼らの胆力までが試されることになった。二人は落ち着きを取り戻すと、スカイラブに戻りEVAを終了した。 飛行士らはこの後1ヶ月近くにわたって作業室のさらなる修理作業を実施し、医療実験を行い太陽や地球の科学的データを収集した。実験に費やした時間は総計で392時間に及んだ。またこの飛行では巨大な太陽フレアの発生の過程がアポロ搭載望遠鏡で2分間にわたって追跡され、約2万9000枚の太陽の写真が撮影された:291。宇宙滞在期間は28日間におよび、それまでのアメリカの記録を2倍に更新した。1973年6月22日、飛行は成功裏に終了し、スカイラブ2号は回収船タイコンデロガから9.6キロメートルの太平洋上に着水した。飛行士らは有人宇宙飛行の期間と飛行距離、さらにドッキングした状態における宇宙での総重量で記録を更新し、またコンラッドは宇宙に行ったのは今回が四度目で、米ソ双方において最多 (当時) となった。
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主要な任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 05:37 UTC 版)
4号は、スカイラブ最後の飛行であった。 ステーションに到着すると、飛行士らは船内に誰か先客がいるのに気づいた。よく見るとそれは前の3号のアラン・ビーン、ジャック・ルーズマ、オーウェン・ギャリオットらが残していった船内服を着た3体の人形で、計画の記章や名札までちゃんと身につけていた。 飛行士らは全員が宇宙飛行をするのはこれが初めてであったため、作業室を起動する際、彼らの先輩たちと同じ水準の労働量で行うことは困難だった。任務はまず、彼らがポーグの宇宙酔いの初期症状を医師から隠蔽しようとしたことで、出だしからつまずいてしまった。この事実は管制官らが船内の音声の録音をダウンロードしたことで発覚した。飛行士らはまず始めに、これからの長期間の宇宙滞在で必要となる数千もの機材の積み下ろしや収納から始めなければならなかったが、この作業が膨大なものだった。またステーションの起動手順には、実行すべき多岐にわたる作業を伴う長い労働時間が必要とされ、彼らはすぐに自分たちが疲労しスケジュールに遅れていることを自覚した。 スカイラブの起動作業が進むにつれ、飛行士らはあまりにも過酷な労働を強いられることに不満を述べはじめた。一方で地上の管制官らはこれには同意せず、逆に彼らの労働は時間も量も不十分だと感じていた。任務が進むにつれ彼らの不満はつのり、ある無線会議で頂点に達し、怒りを爆発させることになった。このできごとの後、作業スケジュールは修正され、任務が終了するまでに飛行士らは発射前に予定されていたものよりも多くの作業を遂行することができた。飛行士と管制官の間で起こったこのできごとは、その後の有人宇宙飛行で作業スケジュールを設定する際の貴重な経験となった。 感謝祭の日に、ギブソンとポーグは6時間半に及ぶ船外活動を実行した。その前半は太陽観測装置のフィルムを交換することに費やされ、残りの時間で故障したアンテナを修理した。 食事に関しては飛行士らにそれほど不満はなかったが、味がやや薄く、できればもっと調味料を増やしてほしいと報告した。彼らが使用できる塩の量は医学的な観点から制限されており、消費される食事の量や種類は厳密な体調管理のもとで入念にコントロールされていた。 飛行7日目に 姿勢制御装置のジャイロスコープに異常が発生し、任務が早期に終了してしまいかねなくなる危機に陥った。スカイラブには3基の大型のジャイロスコープが搭載されていた。機体の制御や操縦はそのうちのどれか2基が機能していれば望み通りのことができるようになっており、3基目は他の2基のうちのどれかが故障した際のバックアップとして作動していた。この故障は潤滑油が不足していたことによるもので、飛行の後期に二番目のジャイロにも同様の問題が発生したが、特別な温度管理を行い負荷を減らしたことで機能を保ったため、それ以上の問題は発生しなかった。 飛行士らは地球の調査研究に多くの時間を割いた。カーとポーグは交代で配置につき、観測装置を操作して地球表面の特徴から抽出されたものを計測し写真撮影した。また太陽の観測も行い、X線、遠紫外線、可視光線などによる約7万5000枚の太陽の写真を望遠鏡で新たに撮影した。 ギブソンは任務終了が近づいても太陽表面の観測を続けていた。1974年1月21日、太陽表面の活動領域に輝点が形成され、急激に明るさを増し成長していった。ギブソンは直ちにこの輝点が吹き上がっていく過程の撮影を始めた。この映像は太陽フレアの発生を宇宙から記録した初めてのものとなった。 12月13日、飛行士らは太陽観測装置と携帯カメラの照準を合わせ、コホーテク彗星の観測を始めた。撮影は彗星が太陽に接近するまで続けられ、遠紫外線カメラでスペクトルが収集された。12月30日、カーとギブソンは船外活動をしている際に、彗星が太陽の背後に隠れたことを確認した。 飛行士らはまた、軌道上からの地球の撮影も継続した。このとき彼らは、指示では禁止されていたにもかかわらず (おそらくは偶然に) エリア51を撮影してしまった。この秘密施設の写真を公開するべきか否かについては、関係諸機関の間で若干の議論が巻き起こった。最終的には他のすべてのスカイラブに関するNASAの記録写真とともに発表されたが、数年の間この件について気づかれることはなかった。 4号の飛行士らは地球を1,214周し、四回にわたる船外活動の総時間は22時間13分に達した。また84日1時間16分で、5,550万キロメートルを飛行した。 飛行士らは3人とも1960年代半ばにアポロ計画の飛行士としてNASAに採用され、ポーグとカーは飛行が中止になったアポロ19号の乗員候補だった。4号の乗員らはこの後のアポロ・ソユーズテスト計画の飛行士には選ばれず、またスペースシャトル初号機が発射される前にNASAを退官したため、結局誰も再度宇宙に行くことはなかった。科学者の宇宙飛行士として訓練を積んだギブソンは、カリフォルニア州ロサンゼルスのエアロスペース社 (Aerospace Corp.) の主任研究員の科学者としてスカイラブで得られた宇宙空間物理学のデータを解析するため、1974年12月にNASAを退官した。
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