日露交渉での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 07:50 UTC 版)
「ヘンリー・デニソン」の記事における「日露交渉での活躍」の解説
1904年(明治37年)から始まった日露戦争でも、対露宣戦布告文の起草にあたった(この間におけるエピソードについては後述)。また一方で、戦争開始直後から始まった小村外相・金子堅太郎による米国を介した講和交渉を全面的に支え、ロシア側への交渉文書はほぼすべてデニソンが手がけている。その名文ぶりに欧州各国から日本への好感を集めるきっかけともなった。ポーツマス条約の締結にも尽力した。 1914年(大正3年)、築地の聖路加病院で死去(68歳)。墓は、青山墓地内の、辛苦を共にした小村寿太郎の墓の近くに建てられた。
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