『アイヌの叫び』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 14:44 UTC 版)
観光地であった白老に移り、観光客を出迎えたり施設を案内する仕事に就いていた藤蔵は、その頃の体験をもとに、「激しき生存競争に喘ぎつゝも、愛しき我子の為により善き未来を建設し様と努力しつつあるウタリ等の真意を伝へ、誤れるアイヌ観を打破し様」として書いたのが『アイヌの叫び』である。第2章「悲惨なるアイヌ観」の中では、「内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類)を着て毎日熊狩りをなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んでいる種族の様に思い込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります」と、和人の偏見を指摘したあと、アイヌの生活を「古代」「過渡期」「現代」に分けて記述し、アイヌに対する真の救助とは金や食料ではなく、「学問」であるとして教育の充実を訴えた。 さらに付録として、バチェラーの主宰による全道アイヌ青年大会の熱気あふれる様子を報じ、「我々は最早眠っていてはならない、私等は声を揃えて眠れるウタリたちを呼び起こそう」というアピールで結ばれる。ただし、貝澤は本書の中で一神教であるキリスト教はアイヌの信仰や死生観と相容れないことを指摘し、バチェラーの布教活動に「比較的実績の見るべきものの無い」のは「最初宗教に依ってアイヌ人を教化しようとしたから」と述べている。 貝澤藤蔵の著作となっているが、森竹竹市に金十円で代筆してもらったという説もある。序文を書いた喜多章明に草稿を見てもらったともいう。いずれにせよ、主張や内容の多くが藤蔵自身のものであることは、伊那高等女学校で行った講演会記録と照らし合わせて確認できる。この小冊子がどのくらいの部数で発行され、どのくらいの範囲に知られていたかということは今後の研究を待つしかない。発行された約10年後に「アイヌによる著作」を特に調べた書誌研究家・式場隆三郎でさえ実物を見たことがなく、「日高の平取村の酋長の書いたものだときく」と伝聞によって記すしかなかったほど希少であったことは確かである。
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