日露戦争と提理部編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:09 UTC 版)
「野戦鉄道提理部」の記事における「日露戦争と提理部編成」の解説
「日露戦争」も参照 日露戦争は1904年2月8日、旅順に停泊中のロシア艦隊への奇襲攻撃によって開戦した。島国である日本にとって制海権奪取は戦略上不可欠であり、日露両海軍は遼東半島や朝鮮半島周辺で繰り返し衝突。4月頃になると制海権は次第に日本側のものとなり、中国大陸や朝鮮半島への兵員輸送が大量に行われ、陸軍が作戦を展開することになった。 この際、朝鮮や朝鮮と満州を連絡する鉄道を建設するとともに、満州を通過する東清鉄道を、陸軍に対する補給・輸送手段、いわゆる「野戦鉄道」として転用することが考えられた。当時鉄道は、その有する輸送能力の高さから軍事輸送上最重要とされる存在で、各国とも工兵部隊による鉄道敷設を行い、または占領地の鉄道を接収し、野戦鉄道として活用していた。日本もこれにならい、新線建設のみならず既設の鉄道を活用することを計画したものである。 朝鮮半島内や朝満間の鉄道に関しては戦争当初から鉄道敷設が作戦内に含まれ、陸軍の中に設置されていた戦時鉄道の建設・運営を行う「鉄道隊」と称される部隊を「臨時鉄道大隊」として派遣、建設に当たらせることにした。 しかし鉄道隊のみでは建設・運営能力が不足することが予想されることから、1904年4月に大本営は東清鉄道の接収・運営に当たる専門部署を設置することを決定、6月1日に東京で「野戦鉄道提理部」が編成された。提理部は軍と逓信省鉄道作業局(のち帝国鉄道庁)が協力して編成したもので、陸軍の一部署とされた。 日本陸軍は第一軍が朝鮮半島、第二軍が直接遼東半島に上陸し、進軍を開始した。このうち第二軍は先遣部隊が半島を横断し、5月14日に普蘭店へ到着、ロシア側の輸送路を絶つべく東清鉄道を爆破した。この際ロシア側要人が乗車する列車が偶然通過したため射撃を加えたが、赤十字旗を掲出したため攻撃は中止され、ロシア側に大打撃を与える好機を逃すという一件があったものの、ダルニー(のちの大連)や旅順とロシア本国の連絡を分断することに成功している。なおこの爆破により以後ロシア側の列車が普蘭店以南を走行することはなく、この区間は開通からわずか10か月でロシアの手を離れることになった。 やがて第二軍は5月25日から5月26日の南山の戦いでロシア軍に勝利しダルニー一帯を制圧、その先の旅順には乃木希典率いる第三軍が進撃することとなり、第二軍は東清鉄道沿いに北上、ロシア軍の本拠地である遼陽を目指して行軍を開始した。このように次第に満州では、東清鉄道の接収・利用が出来るように戦線が進み始めた。 これにより野戦鉄道提理部は、6月14日に東京の仮本部からダルニーに移転が決定され、「佐渡丸」に乗船し宇品港(現在の広島港)から出港した。しかし翌6月15日、玄界灘において先行していた輸送船「常陸丸」に追いつこうとしたところ、同船がロシア艦隊の攻撃を受け轟沈(常陸丸事件)、佐渡丸自身も大破の被害を受けた。このために提理部のダルニー入りは7月5日まで遅れ、7月7日にようやく上陸終了となった。なお後送されるはずであった資材は先に到着しており、予定が大幅に狂う結果となった。
※この「日露戦争と提理部編成」の解説は、「野戦鉄道提理部」の解説の一部です。
「日露戦争と提理部編成」を含む「野戦鉄道提理部」の記事については、「野戦鉄道提理部」の概要を参照ください。
- 日露戦争と提理部編成のページへのリンク