脚気病研究会の創設と中絶とは? わかりやすく解説

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脚気病研究会の創設と中絶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)

日本の脚気史」の記事における「脚気病研究会の創設と中絶」の解説

1925年大正14年)秋、脚気研究会は、臨時脚気調査会廃止受けて創設された。翌1926年大正15年4月6日第一回総会以降毎年研究報告なされた。特に東京帝大・島薗内科香川昇三は、1932年昭和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」が脚気特効があることを報告した。さらに翌年脚気原因ビタミンB1欠乏にあることを報告した1927年昭和2年ビタミンBB1B2複合物であることが分かり、どちらが脚気原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米奨励でも知られていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め1934年昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけ発表した真に脚気撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学新生面を拓いた。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体研究治療薬としての純粋B1剤の生産潜在性脚気消滅させる対策絞られてきた。しかし、脚気研究会キーパーソンである島薗が1937年昭和12年4月没した。また同年7月日中戦争勃発したため、医学者関心は、地味な学術研究よりも時流戦時医学向けられた。そして脚気研究会は、以後中絶された。 なお、ビタミンB1発見された後も、一般人にとって脚気難病であった上記のとおり脚気死亡者毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタミンB1製造天然物質からの抽出頼っていたため、値段高かったこと、もともと消化吸収率が良くない成分であるため、発病後当該栄養分摂取が困難であったことが挙げられる

※この「脚気病研究会の創設と中絶」の解説は、「日本の脚気史」の解説の一部です。
「脚気病研究会の創設と中絶」を含む「日本の脚気史」の記事については、「日本の脚気史」の概要を参照ください。

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