脚気病研究会の創設と中絶
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「日本の脚気史」の記事における「脚気病研究会の創設と中絶」の解説
1925年(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止を受けて創設された。翌1926年(大正15年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研究報告がなされた。特に東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」が脚気に特効があることを報告した。さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面を拓いた。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策に絞られてきた。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学に向けられた。そして脚気病研究会は、以後、中絶された。 なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率が良くない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられる。
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