脚気惨害をめぐる議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:13 UTC 版)
陸軍の脚気惨害をめぐって、鷗外の責任に関しての議論は絶えない。批判だけでなく擁護論もあり、鷗外は脚気被害をなくすため腐心し、後世に貢献したとする。そのうち鷗外への批判として、(副食物が貧弱な)米食を麦食に代えると脚気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麦食を排除し続けた姿勢について激しい非難がある。また、鷗外が岡崎桂一郎著『日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考』(1912年)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、あえてそれを排除し、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの指摘もある。 鷗外を擁護するものとして、以下の見解がある。 陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負う大本営陸軍部の野戦衛生長官(日清戦争では石黒忠悳、日露戦争では小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。 鷗外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。その別のものとは、白米飯は当時の庶民が憧るご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる。 鷗外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学に基づく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒忠悳に歪められたためとの見解を示した。 続いて以下に鷗外への批判の主なものを記す。 海軍の兵食改良を徹底して非難したこと。鷗外は留学先からわざわざ高木を非難する論文まで送っており、これは日本国内における脚気栄養説への攻撃にも利用された。コッホが細菌を発見するまで人類は病気のメカニズムすら把握していなかった。海軍や高木が行い、陸軍でも日露戦争開戦前に取り入れて成果の挙がっていた「原因は(当時は)わからないが結果として脚気が治る」という現在で言う疫学であるイギリス流の医学に基づく対症療法を認めなかった、あるいは軍の輸送能力や現場からの要求という「情」を持ち出してむしろ後退させた結果が、日露戦争での陸軍の脚気死亡者27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)となって現れた。日露戦争での戦没者は88,429人、脚気などの戦病死以外の、戦死戦傷死者は55,655人に上るが、ロシア側には「歩行もままならない幽鬼のような日本兵」が当時の新兵器である機関銃を備えた陣地に無謀な攻撃を仕掛け、なすすべもなく撃ち倒されたという記録がある。戦病死よりもまだ名誉の戦死の方がマシであると兵士や現地指揮官に思わせ、無為な戦死者を生んだ原因は、陸軍軍医部上層部の脚気根絶の無理解、あるいは栄養説への反発と保身にあった。 論理にこだわり過ぎて、学術的権威に依拠し過ぎたこと。原因が判明しないまま全軍に取り入れることはできないというのは一面で正しいものの見方であるが、経験が蓄積され、あるいは研究が進展してからもなお細菌説に固執した。鷗外は自身同様にコッホに師事した北里柴三郎が「脚気細菌説は誤り」とした時、これを批判した。北里がペスト菌を発見した際もこれを痛烈に批判している。軍医、しかも高官にまで出世する立場にあるならば、ビタミンなどの微小栄養素が発見前であることから原因の説明ができない高木の栄養説を攻撃する前に、徴兵主体の兵士の健康を確保するべきであったが、鷗外にとってそれは重要ではなかった。コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。この結果、細菌説の支持者だった臨時脚気病調査会の委員が栄養説へ転向したが、会長の鷗外はこれを罷免した。また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。 日清戦争時に上官の石黒に同調したこと。石黒は日清戦争当時に土岐頼徳からの麦飯支給の稟議を握りつぶし、日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。石黒自身は、脚気を根絶可能とし、実際に患者を減らした海軍と異なり「脚気根絶は甚だ困難」という談話さえ発表している。土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させ、5年後に予備役に追い込んだが軍法会議は開かなかった。軍法会議を開いた場合、軍規違反を起こした士官の上官としての統率責任と、そもそもなぜ軍規違反に至ったかの経緯が公になるためである。しかし石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。鷗外が同調した上官とはこのような人物であり、同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。 日本で脚気の原因が栄養にあることが認められたのは海外での研究の結果であり、海外での成果が確定すると細菌説の支持者も自らの間違いを認めざるを得なくなった。鷗外が会長代行を務めた臨時脚気病調査会は原因が栄養であるという国内での研究の阻害こそすれ、その研究に貢献したとは言い難いものであったと言われる所以である。ただし、当時の日本は年間で1万から2万人が脚気によって死亡しており、またコレラの流行で4万人が死亡するなど病死の捉え方、あるいは生命の価値というものが現代とは大きく異なる部分があった。脚気が即死するような病でないこともあり、「パンや麦飯を食うぐらいなら、死んだほうがマシ」という声は少なくなかった。日本で脚気患者が根絶といってよい程度に激減するのは、ビタミンを薬品として大量供給できるようになった1960年代以降のことである。
※この「脚気惨害をめぐる議論」の解説は、「森鷗外」の解説の一部です。
「脚気惨害をめぐる議論」を含む「森鷗外」の記事については、「森鷗外」の概要を参照ください。
- 脚気惨害をめぐる議論のページへのリンク