父への憧れと母への嫌悪
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「ナポレオン2世」の記事における「父への憧れと母への嫌悪」の解説
1826年8月24日には、ナポレオン崇拝者の室内装飾家が、ナポレオン・フランツの馬車に三色旗とフランス帰還を求める手紙を投げ込む事件が発生し、ナポレオン・フランツにも大きな衝撃を与えた。その夏の母マリー・ルイーゼとの面会を終えた後、ライヒシュタット公は父ナポレオン1世に関する資料を熱心に読み始めた。ナポレオン1世逝去後、相次いで回想録が出版されており、ナポレオン1世の部下エマニュエル・ド・ラス・カーズ(英語版)が発表した『セントヘレナにおけるナポレオン回想録』(原題:Le Mémorial de Sainte-Hélène)や、シャルル=トリスタン・ド・モントロン侯爵の回想録(原題:Mémoires pour servir à l’histoire de France sous Napoleon)に特に夢中になった。 ドイツ史や『ゲルマニア』『ガリア戦記』にも感銘を受け、また『ドン・カルロス』の詩を暗誦して感傷に浸った。 同年冬、ライヒシュタット公は肺カタルを患ったため、翌1828年夏のマリー・ルイーゼの訪問に際し、孫息子を心配したフランツ1世は自らパルマに手紙を送った。フランツ1世は、1828年8月17日に、ライヒシュタット公の修学状況を認めて陸軍大尉に任じた。母マリー・ルイーゼは息子を祝福し、ナポレオン1世がエジプト遠征時に用いたトルコ風の刀を授けると、ライヒシュタット公は大いに感激し、生涯にわたり愛用した。マリー・ルイーゼは、パルマに戻る前、父皇帝と皇后にナイペルク伯と極秘裏に再婚し子を儲けていたことを、父フランツ1世に告白した。 翌1829年2月、ナイペルク伯が逝去すると、マリー・ルイーゼ女公は宰相メッテルニヒの調査に応じ、ナイペルク伯との再婚と子の存在を公にした。フランツ1世が自らライヒシュタット公にこの事実を告げると、公はあまりの衝撃に言葉を失った。ディートリヒシュタインに対しては、ただ一言「不愉快だ」と漏らした。4月1日になって、ライヒシュタット公は母の悲苦だけを思いやった手紙を認め、母子の関係は逆転してしまった。 やがて、ライヒシュタット公は、ナイペルクの前妻との子グスタフと共に調査して、異父弟妹の生年を知り、二人とも母が父ナポレオン1世の存命中に子を儲けていたことに更なる衝撃を受けた。一方、冷静に母の辛い境遇を思慮して自己を抑制し、前にも増してマリー・ルイーゼに宛てて優しい手紙を書いた。
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