新たな対立の構図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 04:57 UTC 版)
5月6日に池田信正(久宗)が晴元の屋敷で切腹させられたが、これは三好氏の長老格である三好政長の進言よるものと言われる。長慶は政長に対して不信を抱き、政長の誅殺を晴元に願ったが聞き入れられなかった。晴元から離反した長慶は姻戚関係を元に遊佐長教と結び、天文18年(1549年)の江口の戦いで晴元・政長と激突した。 永正の錯乱から始まった細川氏両派の争いは、三好長慶を中心とする新たな抗争の構図に移行し、織田信長の畿内制圧までの間、三好氏が畿内の動向を左右するきっかけになった戦いでもある。
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