新たな工芸への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 19:56 UTC 版)
1962年(昭和37年)、木内は旭川市内に染織り工房を設立し、本格的な取り組みを始めた。さらに服飾、アクセサリーなどの教室を次々に開設した。意欲的な女性が集まり、いつしか旭川市内での教え子の数は、400人にまで上った。当時は、小物やタペストリーなどの民芸品作りが中心であったが、作品はさほど売れず、織っても織っても思うような作品は生まれることはなかった。 北海道に新たな工芸を作ることは、木内が最初にデザインや手法を考案して、多くの織り手たちがそれを学んで習得し、木内の作品を寸分の狂いもなく織ることで、伝統が確立されるということだった。木内は組織作りから開始することとし、同1962年に旭川で技術講習会を開催した。主婦50人が参加し、工業試験場の工芸部長を始め、講師陣、受講者たち全員が、北海道に新たな工芸を作りたいとの意欲と情熱に満ちていた。 木内は新たな伝統としてのこの織物に、アイヌ語で叙事詩を意味する「ユーカラ」の名をつけた。「ユーカラ」には「伝承する」との意味もある。木内はアイヌの伝統文化を高く評価しており、初期の作品には触発されたものもあるため、北海道に新たな織物を根付かせ、次代に伝えていくには「ユーカラ」の名がふさわしいとの考えであった。アイヌ語の名称を用いることについて、アイヌの古老である川村カ子トの許可も得た。 北海道や旭川、経済界、地元の農機具メーカー、デパートなど、各分野の協力もあり、滑り出しは順調に見えた。しかし伝統の壁は厚く、各地の染織の専門家たちは木内をまともに相手にしなかった。木内は織りの下に織りがあるような、油絵のような織物を目指したが、それを理解しない批評家から「色彩分裂症」と笑われることもあった。「この色は意地が悪い」「この帯は性(さが)が悪い」と酷評され、返品の山が築かれた。織物に全力を注ぐあまり、喫茶店も美容院も辞めたため、収入源を断たれ、大幅な赤字に追い込まれた。 木内は自身のアイディアのみで勝負をするしかないと考えたことで、手紡ぎの糸作りに取り掛かった。手紡ぎでは、赤い糸を作るだけでも、明るさ、濃さ、色調の異なる数種の赤に染めて、それらを手で1本の糸に紡ぐ。1本の糸に数種類の色を用いることで、市販の糸にはない、微妙な色合いと、落ち着いた風格を実現した。またデザインも、木内は北海道を織ることにこだわり、ナナカマドやライラックなど、独自の工法の色使いで織物を仕上げた。 1964年(昭和39年)、北日本中小企業振興展で工芸協会会長賞を受賞。1965年(昭和40年)には日本ニュークラフト展で入選、1966年(昭和41年)日本民芸公募展では5作品を出品し、そのすべてが入選した。新聞紙上でも取り上げられるようになった。以後も多くの展覧会で受賞し、木内は強い自信を得るに至った。伝統のない場所に新たな伝統を打ち立てようとする木内の熱意は、多くの評価となって結実した。1967年(昭和42年)には東京の銀座松屋画廊で、初の個展を開催した。 木内の完成させた優佳良織は、流氷、クロユリ、摩周湖といった北海道の自然や風土を題材として、数百種類の色を混ぜ合わせて紡いだ羊毛を、油絵のように織り込む、いわば「北海道を織った工芸品」であった。通常の織物は縦糸と横糸が直角に交差するために、曲線を描くことは困難だが、木内は複雑な織の技法を駆使し、且つ複雑な模様を操り、動植物や風景など、自然の景観を表現した。こうして完成された優佳良織は、「染織の域を超えた芸術作品」とも評価された。
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