新たな展開-ガレージキット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 09:57 UTC 版)
「海洋堂」の記事における「新たな展開-ガレージキット」の解説
80年代初頭、アニメ・特撮ファン界が空前の盛り上がりを見せた。雑誌『宇宙船』(2005年に一時休刊した後、2008年に出版元を変えて再刊)の1コーナーが火種となり、「メーカーが商品化しないなら自分で作ろう」「メーカー製のものは元のキャラクターと全然似ていない。自分ならもっと出来のいいものが作れる」とマニアたちの間でメーカー製の模型をただ買って組み立てるのではなく、一から自分で作り起こしてしまう事が流行し始めた。大抵は自分で作り上げた時点で満足し、完結してしまうが、宮脇父子や海洋堂に集まるモデラーたちは何とかこれを複製する方法はないかと考えていた。当時でもバキュームフォームキットという、簡易な成形・複製技術で作られた模型は存在し、マニアの間で知られていたが、組立に相当な技量を要し、原型の再現度も低いものであった。ある日、常連モデラーの一人、川口哲也がモスラの幼虫のキットを持って海洋堂にやってきた。川口の本職は歯科技工士であり、入れ歯やインレーを作る技術を応用した方法で自作のモスラの幼虫を複製したものを持ってきたのである。宮脇たちは大いに驚いた。この方法を使えば、プラモデルの生産に用いられる金型による射出成型よりも大幅に安価な初期投資で、且つ緻密でリアルな表現が可能になるからである。様々な試行錯誤と各地のモデラーたちとの情報交換の末、「シリコーンゴムで型を採り、それに無発泡ポリウレタンを流し込んで複製する」手法が確立され、いつしか「ガレージキット」と呼ばれるようになった。 以降、海洋堂は自分達が欲しい、作りたい、と思っていたものを作っては、店の会員向けに販売するようになった。 そんな海洋堂に、当時同じくガレージキットを製作・販売していたゼネラルプロダクツ(後のガイナックス)代表、岡田斗司夫が現れる。「商売敵」の店に乗り込み、自信たっぷりに持論を語る岡田(本人は決して挑発に来たつもりでは無かった)に、負けん気強い宮脇父子や海洋堂のモデラーたちは対抗意識を燃やすようになった。これがゼネラルプロダクツとのライバル関係の始まりであった。 ゼネラルプロダクツは「版権を取って商品を売る」ことを始めていた。パッケージにも凝り、「商品」らしい体裁を整えていた。ゼネラルプロダクツのガレージキットを「きちんとした商品」「ビジネス」として世に問おうとする姿勢の現れであった。これは海洋堂にとって刺激となった。海洋堂にとってガレージキットの売上数など200売れたらヒットという程度の物であり、パッケージに凝るなど全くの無駄、煩雑な手続きを踏んで版権を取って売るなどという考えなどなかった。しかし、版権を取得する事は、ガレージキットに市民権を得させ、より多く販売する上で不可欠であると認識するようになり、海洋堂も版権を取ったうえで商品を売り始めたのである。ユーザーの間では、製品の質(=原型の出来)はゼネラルプロダクツより海洋堂の方が高いとされ(岡田自身も認めている)、後にゼネラルプロダクツはガレージキットから撤退、アニメ、ゲームソフト製作会社に転向した。ガレージキット勝負では海洋堂が勝った、と言えるかも知れない。 1992年にガレージキット最大の祭典である『ワンダーフェスティバル』の主催をゼネラルプロダクツから引継ぎ、業界の主導的役割を担っていく事になった。
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