新たな境地での起筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)
社会的なものに根ざした作品を書きたいという思いと、実社会と密接していない自身の境遇との齟齬を感じていた基次郎だったが、1929年(昭和4年)10月末、京都を訪れていた宇野千代から連絡を受け1年ぶりに会って心が弾んだ。その勢いで11月下旬には福知山歩兵第20連隊入営中の中谷孝雄の元に出向き雪の日に一泊するなど、病身でも家でじっとしていられなかった。 その寒中の無理や、帰りの駅のブリッジの階段で汽車の煤煙を吸い込み呼吸困難になるなどして数日間寝込んだが、12月2日には、神戸に引っ越した宇野千代に再び会って元気が湧いた。 神戸から戻った後、執筆意欲が高まった基次郎は10時間ほど机に向って『のんきな患者』の第1稿となる原稿を書き始めた。基次郎は病気進行を自覚し、一つの新たな境地の中で残り少ない人生を受けとめながら、その間小説家として生計が立てられるよう希望していた。 僕は此度はどうあつても続けて小説を書いて行かうと思つてゐる。僕は此頃身体がこれ以上よくなるとは思ふまいと思つてゐる。どうも恢復はしそうにない。しかしこの頃の「いい日」の身体の状態は毎日少し宛の仕事をして行く位は差支ない。この程度の状態なら調節次第でまだ何年かは持続してゆくことが出来ると思つてゐる。それで僕は調節しいしい仕事をしてゆくことにきめた。家の方の経済もヒッ迫して来て いつまでも安閑としてゐることは出来ないのだ。仕事は金にならなければならない。いかに零細な金でも それをたのしみにして仕事をするつもりだ。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和4年12月8日付) 12月中旬には、見舞いに来た淀野隆三と清水芳夫(元『青空』同人)と話が尽きなく、基次郎は伏見の淀野の家に清水と泊りに行き疲れ果て、清水に付添われ呼吸困難を鎮めつつタクシーで帰途につき、また1週間ほど寝込んでしまうこともあったが、それでも意欲に溢れ、精神的に自身を〈ある時期に到着した〉と捉えていた。 僕は今後健康が回復次第(二三後)また仕事にかゝります、机の前にすわつてゐれば もう僕は実にたいしたものです、これは精力のことではありません、毎日他へ気をそらさずにやれるからです、仕事は六時間位が適当と思ひます、誰にも負けないつもりです、 (中略)僕はもう病気の癒るといふことに望をかけません。身体の寒暖栄養の調節をしながら仕事をして行くつもりです、金がはいつて来るにつれ治療の道も立ちます、そしてそれがとにかく一番僕として経済的にも精神的にもほんとうの道だと思ひます。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(昭和4年12月18日付) こうしてこの年の冬に、最初の草稿となる第1稿50枚ほどが書かれたが、寒さで病状は思わしくはなく、友人の近藤直人の勧めで翌1930年(昭和5年)から和歌山の病院で療養することも考えていた。
※この「新たな境地での起筆」の解説は、「のんきな患者」の解説の一部です。
「新たな境地での起筆」を含む「のんきな患者」の記事については、「のんきな患者」の概要を参照ください。
- 新たな境地での起筆のページへのリンク