摂津戦線の攻防とは? わかりやすく解説

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摂津戦線の攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 08:44 UTC 版)

江口の戦い」の記事における「摂津戦線の攻防」の解説

長慶10月28日摂津越水城出発、政長の拠点である河内十七箇所進軍し十七箇所拠点で政勝が籠城する摂津欠郡の榎並城包囲そのまま越年し翌年天文18年1549年2月18日に堺で長教と会談し協力取り付け26日に一旦尼崎に兵を進め十七箇所戻った一方、政長は摂津国人の大半長慶となっているため山城から摂津への侵攻出来ず迂回して丹波通り桑田郡から摂津北部侵入猪名川流域南下して川辺郡塩川城一庫城山下城)で兵を増やし1月24日により南の池田城攻撃伊丹親興支援受けて十七箇所迫った。 しかし長慶3月1日榎並城西側位置する摂津中嶋城に兵を送り、政長派の細川晴賢細川政賢の孫)がいる堀城榎並城中間の柴島城攻めさせ、救援に来た政長を破り柴島城落として榎並城追った。政長は親興の居城伊丹城退却長慶榎並城包囲続けたが、堅牢兵糧豊富にある榎並城4月になって落城する気配無かった4月初め晴元近江出向き六角定頼と結び欠郡への援軍派遣取り付けると、政長と同じ道を通り丹波から北摂津、猪名川へと進軍4月26日塩川城に入ると、28日武庫郡出兵して西宮一帯放火し後方撹乱した。翌29日には伊丹城の政長・親興軍も城から打って出尼崎にて放火5月1日には富松城攻めた落城させることは出来ず退却した晴元狙い越水城中嶋城三好軍を分断し榎並城にいた政勝を援護することだった。 攻勢出た晴元は、5月2日三宅城の守将香西元成命じ味方六角軍の来援備えて芥川山城攻めさせた。この城は摂津北東位置する城で山城摂津の国付近にある重要拠点でもあり、城主芥川孫十郎長慶与していたため政長と晴元迂回行軍するしかなかったのである。しかし、香西元成軍勢惣持寺西川原三好長逸軍勢阻止されると、今度5月5日に政長が伊丹城から三宅城入城5月28日には晴元自身塩川城から三宅城入って政長を後援した

※この「摂津戦線の攻防」の解説は、「江口の戦い」の解説の一部です。
「摂津戦線の攻防」を含む「江口の戦い」の記事については、「江口の戦い」の概要を参照ください。

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