摂津富田への布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:34 UTC 版)
織田信孝・丹羽長秀、池田恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。6月12日、秀吉軍は尼崎から西国街道をそのまま進み富田(大阪府高槻市)に着陣したが、秀吉の宣伝は功を奏し、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じた。中国方面軍司令官である秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、それまで去就をためらっていた諸勢力が一気に秀吉方についたのであり、このことが山崎の戦いでの秀吉の大勝利につながった。一方の光秀はキリシタン大名の右近に対してイエズス会の宣教師オルガンティノを通して説得したが、成功しなかった。 大坂で信孝、長秀の軍と合流した上で京に向かうのではなく、秀吉が西国街道をそのまま進んで富田に着陣したことについては、秀吉が既にこの時点で戦後の政局を考慮しており、誰よりも早く主君の弔い合戦に駆けつけたのは秀吉軍であるということを広く天下に知らしめる必要があったとする見解がある。 浄土真宗教行寺の寺内町として栄えた富田は大阪平野北端にあって天王山にも近く、茨木城と高槻城のほぼ中間に位置して西国街道が通じ、淀川の水運も利用できた。また、微高地状の地形になっていて守備も比較的容易だったため軍事拠点に選ばれたのである。秀吉は富田に野営を設けて作戦会議を開き、その結果、 左翼(山手)…羽柴秀長、黒田孝高ら 中央(中手筋道)…高山右近、中川清秀、堀秀政ら 右翼(川手)…池田恒興、池田元助、加藤光泰ら の三軍に分かれて進撃することに決し、右近・清秀らに先発を命じた。そこへ信孝・長秀が大坂より合流した。秀吉軍の軍勢は『太閤記』では4万余、『兼見卿記』では2万余と記しているが、谷口は2万余が実数に近いのではないかと推測している。明智討伐軍の総大将には信孝が立ったものの、信孝自身兵の多くが逃亡し、ひたすら秀吉の到着を待つほかなかった。畿内の有力諸将を味方につけてこれを編成した功績は秀吉にあり、秀吉が終始主導権を握ったのも自然の成り行きであった。 対する光秀軍は、右近、清秀、順慶のみならず姻戚関係にあった細川父子からも協力が得られなかったため、兵員は秀吉軍の半数以下であった。『太閤記』には、秀吉軍計4万人に対して、光秀軍1万6,000人と記しているが、多めに見積もっても兵員1万5,000人程に過ぎなかったという見解もある。いずれにせよ、寡兵で戦わざるをえない光秀としては、淀川と天王山に挟まれた山崎の狭隘な道を秀吉軍が縦長の陣形で進軍してくるところを順次撃破していくという作戦しかとれなかった。 今日においても大阪平野の北摂地方から京都盆地に入るには、どうしても通らなければならないのが山崎の地である。光秀としては、秀吉の大軍をどうにかして山崎の隘路において防ぎ止めなければならないと考えていたものと思われる。光秀はこの作戦に基づいて勝竜寺城を前線として淀城を左翼、円明寺川に沿った線を右翼として兵を配置、中央には子飼いの斎藤利三や阿閉貞征らの近江衆を配して先鋒隊とした。しかし、光秀の本陣は12日時点でも下鳥羽に置かれたままであった。その面では、光秀の作戦は軍事的のみならず心理的にも守勢に立ったものといってよい。なお、この作戦を有利に展開していくためには、山崎を見下ろす戦略的な要地である天王山を確保しなければならなかったという見解がある一方、天王山の重要性に否定的な見解もある。
※この「摂津富田への布陣」の解説は、「中国大返し」の解説の一部です。
「摂津富田への布陣」を含む「中国大返し」の記事については、「中国大返し」の概要を参照ください。
- 摂津富田への布陣のページへのリンク