スハルト時代の終焉
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1997年以降、東南アジア地域の通貨危機(アジア通貨危機)が発生し、インドネシアも通貨ルピアの大幅切り下げやIMF特別融資などの影響は、住民の生活に大打撃を与えた。 事態を打開できないスハルト政権に対する不満が急速に高まり、約30年にわたって続いてきた長期政権下での潜在的不満も各地で噴出するようになった。そうした不満は、前大統領スカルノの長女メガワティが率いる闘争民主党の支持へと形を整えていった。 そうした国民の不満をよそに、1998年3月11日、スハルトは大統領に7選されたが、ここにいたって国民の不満は頂点に達した。首都ジャカルタでは大学生の反政府デモが一般市民をも巻き込んで街頭を埋め尽くし、その一部は暴徒化した。デモは地方都市にまで波及し、政府内部にもスハルトへの辞任要求の声が高まった。これらの圧力に屈する形で、5月21日、スハルトは大統領辞任を宣言、副大統領(当時)のハビビに職を譲った。 その後、「スハルト政治の清算」が進み、スハルトの三男トミーや政商ボブ・ハッサンは汚職で逮捕され実刑判決を受けた。スハルト自身も訴追されたが、2006年5月高齢と病気を理由に裁判は停止された。ただし2007年7月に最高検が起こした総額14億ドル(約1500億円)の不正蓄財の返還と損害賠償を求める民事訴訟はスハルトが死去した現在も係争中である。 1999年7月脳梗塞で倒れて以来、入退院を繰り返すようになり、2008年1月4日に体調を崩して再入院。全身性浮腫や心機能低下と診断され、約3週間後の1月27日、多臓器不全によりジャカルタ市内の病院にて死去した。86歳没。ラウ山のアスタナ・ギリバングンに埋葬された。
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