スハルト時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 02:05 UTC 版)
1971年以降、インドネシアでは5年に一度、総選挙が実施されてきたが、スハルト時代の総選挙でゴルカルが圧倒的な強さを誇ったのは、それが法制度面での恩恵を十分に受けていたからに他ならない。 スハルト時代に制定された政党・ゴルカル法は、各政党の支部組織の設置基準を、首都、一級自治体(州)、二級自治体(県)レベルの3段階に限定していた。そのため、ゴルカル以外の政党(インドネシア民主党と開発統一党)は、郡・村レベルでの組織浸透をはかることができず、選挙では苦戦を強いられた。 一方、ゴルカルは、政党の支部設置基準に拘束されることなく、郡・村レベルでもその出先機関を配置することができた。公務員はゴルカルへの加入を半ば強制的に推奨されていたため、ゴルカル地方支部は地方官僚組織と一体化しており、ゴルカルの影響力は草の根レベルまで浸透した。 また、この法律は、党費・寄付・合法的な事業・国家の補助など、党の運営資金面について規定していたが、党費を除いた項目は無制限であったため、ゴルカルへの寄付が後を絶たなかった。運営資金面でスハルトの開発独裁政権を強固なものにしたが、不透明さから汚職、癒着、縁故主義などによる組織腐敗の温床になっていたとも指摘されている。 同法では、選挙制度もゴルカル有利に定められていた。具体的には、全県が少なくとも1議席を有し、各州ごとに人口比例の議席配分を実施する変則型比例代表制であった。「選挙法」の定めに従い、選挙監視委員会委員長・委員会は、知事クラスの公務員が兼任していたため(知事は大統領による任命制であった)、選挙の実施機関と官僚組織が一体化していた。また、ゴルカルの選挙運動には公務員や軍人が大々的に動員された。 さらに選挙当日の投票は村の役場などで行なわれたため、有権者は棄権を許されず、投票会場では無言の圧力を感じながら、ゴルカルへの投票を促された。 こうして完全な政府統制のもとで実施された総選挙は、毎回異様に高い投票率と、ゴルカルの圧倒的な得票率を誇って、スハルト政権の正統性を内外に喧伝する「民主主義の祭典」として機能していたのである。
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