スハルト・新体制期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:02 UTC 版)
「インドネシアの歴史」の記事における「スハルト・新体制期」の解説
1968年3月、スハルトが第2代大統領に就任した。スハルトはスカルノ政権の外交路線を覆し、反共の姿勢を明らかにして西側諸国に接近、規制緩和と開放経済体制を旨とする経済再建策を打ち出した。 スカルノ体制から引き継いだ累積債務の処理について検討する IGGI (Inter-Governmental Group on Indonesia) が1966年に結成され、以後、この債権国グループと世界銀行を中心として、インドネシアへの経済援助を討議する枠組みが形成された。1967年2月にIMFへ再加盟、同年4月には世界銀行にも再加盟した。 インドネシア共産党をはじめとする国内の左派勢力を一掃し、スカルノと同様に、大統領に強大な権限を付与する1945年憲法体制を引き継いだスハルトであったが、政権初期には政治的ライバルが少なくなかった。国軍内部にはなおもスカルノ派将校が存続しており、これらの将校を左遷したり粛清したりしつつ、スハルトが国軍をみずからの支持母体として確立するのは1969年になってからのことだった。 また、スハルトは政権の正統性を内外に示すために、1971年に総選挙を実施することを決定した。この選挙に臨むにあたって、スハルトは1969年に新しい選挙法を制定し、みずからの支持母体としてゴルカルを選挙に参加させることにした。1971年7月3日に実施された選挙はゴルカルの圧勝に終わり、政党勢力の後退を決定づけた。その後、政権のイニシアチブによって既存の諸政党はインドネシア民主党か開発統一党(英語版)のいずれかに統合されることになり、党としての凝集性を失い、内紛の絶えない万年野党としての地位に甘んじるほかなくなった。 このようにしてスハルトは政権基盤を安定化させることに成功し、「安定と秩序」のもとで経済発展を目指す「開発独裁」を推し進めていった。 司法権の基本制度に関する1970年第14号法律により、日本軍政時代に一本化された裁判所の系列は、通常裁判所、宗教裁判所、軍事裁判所、国家行政裁判所の4系列となった。 1974年4月にポルトガルで左派政権が成立し、海外植民地の放棄を宣言すると、東ティモールでも、インドネシアとの併合を主張するティモール人民民主主義協会を押さえて、完全独立派の東ティモール独立革命戦線(フレテリン)が全土を制圧し、1975年11月28日、東ティモール民主共和国として独立を宣言した。これにインドネシア政府が武力介入し、東ティモールの併合派を支援して、インドネシアとの併合を宣言させ、1976年7月17日、東チモールは27番目の州となった。その後、フレテリンはゲリラ戦に移り、地下活動を継続しながら、東ティモールの独立をめざしていくことになった。 また、もともと人口の多かったジャワ島とバリ島の人口過密が問題になると、これらの住民をスマトラ島、ボルネオ島(カリマンタン)、ニューギニア島、モルッカ諸島といった周辺島嶼への移住・入植を奨励した。ジャワ島の住民が各島嶼へ散らばったことによって、ジャワを中心とする統一したインドネシアの観念が広がったが、入植した各地で元の住民との軋轢が生じた。 1979年9月12日、イリアンジャヤ西部でマグニチュード6.7の強い地震があり、沿岸地域の多数の建物が水没するなどの被害が出た。 スハルト政権は30年の長きにわたって続いたが、1997年にアジア通貨危機が起こって経済が危機に瀕すると国民の不満が爆発、民主化を求める市民の群れは、ジャカルタを中心に暴動に発展し、中華街が暴徒によって破壊されるなど、大混乱に陥った(翌1998年5月のジャカルタ暴動(英語版))。そのためスハルトは1998年に大統領辞任に追い込まれた。
※この「スハルト・新体制期」の解説は、「インドネシアの歴史」の解説の一部です。
「スハルト・新体制期」を含む「インドネシアの歴史」の記事については、「インドネシアの歴史」の概要を参照ください。
- スハルト・新体制期のページへのリンク