スハルト体制下の観光開発とは? わかりやすく解説

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スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:03 UTC 版)

バリ島」の記事における「スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)」の解説

外国人観光客推移単位:人)総計日本 (順位)1970年24,340 - ( - ) 1975年75,970 - ( - ) 1980年146,644 - ( - ) 1985年211,222 48,217 (2) 1990年489,710 71,383 (2) 1995年1,014,085 104,819 (2) 2000年1,412,839 362,270 (1) 2003年993,029 185,751 (1) 2004年1,458,309 326,397 (1) 2005年1,386,449 310,139 (1) 2006年1,260,317 255,767 (1) 2007年1,664,854 351,604 (1) スハルトによる開発独裁時代に入ると、バリ島はようやく平穏取り戻す。そして、インドネシア政府周到な配慮の下、観光による外貨獲得最大目的とした観光開発始まり1970年代以降世界的な観光地へと成長することとなった1963年日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され1966年開業1967年ングラ・ライ空港開港すると、サヌールバリ島へのマス・ツーリズム最初メッカとなった。 ただし、当時サヌールクタでは無計画な開発進みインフラ面でも大きな支障出ていたことから、ジャカルタ中央政府新たにヌサドゥアパッケージ型の高級リゾートとして開発することを決定日本パシフィックコンサルタンツインターナショナル具体的な計画策定担当した。ただし、当時オイル・ショックなど世界的な経済不況により開発進まず1983年になり、わずか450室の客室とともにヌサドゥア・ビーチが開業した。しかし、その後ヌサドゥア世界有数ホテル林立する一大リゾートへと発展していく。 このようにバリ島観光開発長らく中央政府主導集権的進められ観光関連税収のほとんども中央吸い上げられてきた。しかし、現地人々は、このように中央主導によって「創られた伝統」をそのまま受け止めることはなく、逆に自らの伝統価値自覚的関心を持つようになり、画一的イメージや「観光のまなざし」と向き合いながら、自身文化巧みに鍛え上げることにもなった。 1989年に入ると、バリ州政府は、独自に観光開発マスタープラン見直し行いガジャマダ大学から総合観光タイプ開発提唱され、これを採用ヌサドゥアのような大規模開発とは対極をなす、バリ日常的な生活、文化観光客体験できるような「観光」の整備開始され2008年現在、プングリプラン、ジャティルイの2完成している。

※この「スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)」の解説は、「バリ島」の解説の一部です。
「スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)」を含む「バリ島」の記事については、「バリ島」の概要を参照ください。

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