スハルト政権崩壊とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/01 09:45 UTC 版)
「インドネシア民主党」の記事における「スハルト政権崩壊とその後」の解説
メガワティ派を追放したPDIだったが、その後の1997年総選挙では議席数を56から11に減らして惨敗した。一般市民のあいだでも、メガワティに対する同情や、スハルト政権・スルヤディ民主党に対する不満や怒りが高まったのである(しかし、その後の大統領指名選挙ではスハルトが再選された)。 そして、1997年7月、インドネシアを直撃したアジア通貨危機によって一気に政治状況が流動化し、1998年5月にスハルトが大統領を辞任すると、メガワティ派も再結集し、「メガワティ支持者グループ」(TPDI)を結成。これが闘争民主党(PDI-P)結成の母体となっていく。一方のPDI内部にも動揺が走り、同年6月2日、同党幹事長アレキサンダー・リタイから、国会内のPDI議員は責任を取って全員辞職すべき、といった発言も飛び出した。 スハルト政権崩壊後の最初の選挙(1999年)では、かつてPDIに統合された5政党のうち、クリスチャン党が国民クリスチャン党(KRISNA)として、カトリック党が民主カトリック党(PKD)として、ムルバ党がそのままの名前で、そしてPDIメガワティ派は闘争民主党として、それぞれPDIから分離して選挙に臨んだ。 前回選挙でも有権者の支持を失ったPDIは、この選挙でも得票率は0.62%、獲得議席数は2にとどまって大敗した。以後、インドネシア政局におけるPDIは、その存在感をほぼ失った。
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