新政の瓦解とは? わかりやすく解説

新政の瓦解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)

建武の新政」の記事における「新政の瓦解」の解説

詳細は「建武の乱」を参照 建武2年1335年5月には内裏造営のための造内裏行事所開設される6月関東申次務め北条氏と縁のあった公家西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統後伏見法皇奉じて政権転覆企てる陰謀発覚する。公宗は後醍醐天皇暗殺失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ各地北条残党挙兵呼びかける鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏守護国を中心に各地反乱起こっており、7月には信濃国高時遺児である北条時行と、その叔父北条泰家挙兵して鎌倉占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。この新政権危機直面後、足利尊氏後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍総追捕使任命求めるが、後醍醐天皇要求退け成良親王征夷大将軍任命した仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍討伐に向かうが、後醍醐天皇追って尊氏を(征夷大将軍ではなく征東将軍任じる。時行軍駆逐した尊氏後醍醐天皇帰京命令拒否してそのまま鎌倉に居を据えた8月には新政下の世相風刺する二条河原落書現れた。 尊氏は乱の鎮圧付き従った将士独自に恩賞与えたり関東にあった新田氏領地勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大軍事力持っていた武者所所司長官)の新田義貞君側の奸であると主張し、その討伐後醍醐天皇に対して要請する後醍醐天皇尊氏のこの要請拒絶し11月に義貞に尊氏追討命じて出陣させるが、新田軍は建武2年1335年12月箱根・竹ノ下の戦い敗北する建武3年1336年1月足利軍入京する。後醍醐天皇比叡山へ逃れるが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍駆逐する同年九州から再び東上した足利軍は、持明院統光厳上皇院宣得て5月湊川の戦いにおいて楠木正成宮方撃破し光厳上皇奉じて入京した。このため新政2年半で瓦解した同月後醍醐帝新田義貞多く武士公家伴い、再び比叡山入山して戦い続けると、入京した尊氏光厳上皇の弟光明天皇即位させ北朝成立する9月後醍醐天皇皇子懐良親王征西大将軍任じて九州派遣兵糧もつき、周囲足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山降りて足利方と和睦和睦反対した義貞に恒良・尊良親王奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐帝光明天皇三種の神器渡し花山院幽閉される。後醍醐帝12月京都脱出して吉野逃れて吉野朝廷南朝)を成立させると、先に光明天皇渡した神器は偽器であり自分正統天皇であると宣言する。ここに、吉野朝廷京都朝廷北朝)が対立する南北朝時代到来1392年元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝抗争続いた

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