新政の開始とは? わかりやすく解説

新政の開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)

建武の新政」の記事における「新政の開始」の解説

後醍醐天皇光厳天皇即位正慶元号廃止光厳署名した詔書光厳与えた官位無効宣言。さらに関白鷹司冬教解任した。 帰京した後醍醐富小路坂の里内裏入り光厳天皇皇位否定し親政開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続して在位主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃主導した足利高氏諸国軍勢催促上洛した武士収めて京都支配主導していた。尊氏足利氏勢力警戒した護良親王奈良信貴山拠り尊氏牽制する動き出たため、後醍醐天皇妥協策として6月13日護良親王征夷大将軍任命する6月15日には旧領回復令が発布され続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来土地所有権例えば、武士社会慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権訴訟申請などに関して天皇裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権認可申請する者が都に殺到して物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵北条氏一族のみと定め知行安堵諸国国司任せたもので、事実上前令の撤回であった8月5日足利高氏後醍醐天皇の諱「尊治」から一字与えられ尊氏」と改め、のち鎮守府将軍任命された。 記録所恩賞方9月には雑訴決断所それぞれ設置される関東地方から東北地方にかけて支配行き渡らせるため、10月には側近北畠親房、親房の子鎮守府将軍陸奥守任命され北畠顕家義良親王後村上天皇)を奉じて陸奥国派遣され陸奥将軍府成立12月には尊氏の弟の足利直義後醍醐皇子成良親王奉じて鎌倉派遣され鎌倉将軍府成立元弘4年/建武元年1334年正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子定められるまた、年号が「建武」と定められる。「楮幣」とよばれる新紙幣貨幣の発行計画され3月には「乾坤通宝発行詔書発行されているが、乾坤通宝存在確認されていないこの頃には新令により発生した所領問題訴訟恩賞請求殺到記録所などの新設され機関における権限衝突などの混乱起こり始め新政問題早くも露呈する5月には諸国本家領家職廃される。徳政令発布され寺社支配下に置くための官社解放令出されるまた、雑訴決断所訴訟手続10ヶ条が定められた。将軍職解任され建武政権における発言力をも失っていた護良親王武力による尊氏打倒考えていたとされ、10月には拘束を受け、鎌倉配流される。12月には八省卿新たに任命され実力重視し家格伝統軽視した人事が行われる。

※この「新政の開始」の解説は、「建武の新政」の解説の一部です。
「新政の開始」を含む「建武の新政」の記事については、「建武の新政」の概要を参照ください。

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