始期・終期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)
始期については、元弘の倒幕計画がいつから練られていたかが不明であるため、直ちに明確ではない。しかし、元徳3年4月29日(1331年6月5日)に、吉田定房が謀反の企てを六波羅探題に密告し、この情報が関東に伝わったことで事件が表面化した。これを受け、鎌倉から長崎高貞と南条高直らの二名の「追討使」が派遣され、軍事的な対立関係が発生した。したがって、この密告を起点として後に続く戦乱が語られる。 終期については、以下の日が考えられる。 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日) - 東勝寺合戦による鎌倉幕府と北条得宗家の滅亡。ただし、幕府の九州統治機関である鎮西探題の軍事力は残存していた。『日本大百科全書』「元弘の変」はこの出来事で記事を終える。 元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日) - 鎮西探題の滅亡、光厳天皇の廃位、年号を元弘へ復帰。森茂暁は、「鎌倉幕府の倒幕劇は(中略)同二十五日の鎮西探題滅亡をもって幕切れとなる」と表現している。 元弘3年5月26日(1333年7月8日) - 長門探題の金沢時直が降伏し、鎌倉幕府の全ての地方統治機関が滅ぶ。亀田俊和の一著作は、この日付で元弘の乱に関する章を終える。 元弘3年6月5日(1333年7月17日) - 後醍醐天皇の京都還幸と建武の新政の開始。『国史大辞典』「元弘の乱」はこの日付で記事を終える。
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