新政府での法整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/14 09:16 UTC 版)
明治元年(1868年)昌平学校に出仕し、明治2年(1869年)1月水本成美、鶴田皓、長野文炳と共に新律取調を命じられた。当初明清律を参照して新律綱領を編纂した。 新律綱領の編纂中、箕作麟祥の翻訳したフランス民法典を閲覧して西洋法制の優位性を認め、明治4年(1871年)1月23日から1873年(明治6年)9月27日までイギリスへ留学し、刑法を学んだ。帰国後、木戸孝允、伊藤博文に新律改正の必要性を訴え、左院刑法取調局で刑法改正に従事した。また、旧幕時代に投獄されたままの収監者の罪状決定を促して府下罪囚取締仮規則を作らせ、また軍鶏と呼ばれた拷問を廃止させた。 1877年(明治10年)ボアソナードを交えて刑法草案が練り直されることとなり、草案審査委員の一員として参加した。 1880年(明治13年)5月5日から1881年(明治14年)7月26日までドイツに留学、ルドルフ・フォン・グナイストに行政裁判法、アルバート・モッセに憲法、アドレーに自治、ベルネに刑法を学んだ。 帰国後、法律取調委員会に属して民法、商法、民事訴訟法等の制定に当たったが、条約改正を急ぐ急進派が民法典、商法典を公布すると、日本社会に適合しないとして強い反対の立場を取り、法案延期を画策した(法典論争)。
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