新政府での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)
「大隈財政」も参照 明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している。 3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。この頃から木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった。またこの頃から「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた。この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行・広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。
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