新政府、西軍へ弁明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
6月16日、藩士中野磯平が半兵衛の密命を受け、京都へ発った。26日夜、京都に着き、27,28と滞在。7月10日に新発田へ帰ってきた。彼は滞在中、在京の窪田平兵衛と連絡をとり、新発田藩の立場を新政府に弁明し、その指示を仰いだ。新政府は「新発田藩の行動は微力な藩としてはやむをえないものと太政官も了承した。官軍に敵対しても、時を得て勤王の実効を表せば、お家のことは案じなくても良い」と回答した。 7月、在野の民兵隊の方義隊は西軍の与板藩兵と柿之木山を守っていた。その方義隊の一員である新保長三郎は新発田領鵜森組庄瀬の庄屋で、7月20日ころ隊へ休暇を願い出て、それっきり帰らなかった。彼は対岸の溝口半左衛門隊に接触し、その命を帯びて、西軍の長岡本営に出頭し、新発田藩出兵の事情の申し開きをしたという。新発田藩は新保に1代3人扶持の恩賞を与えた。
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